人が本当に求めているのは真理
さて、次に問題になるのが可感界と可想界の関係だろう。私たちは具象にあふれる下界で、イデアの天界にある価値観に従って生きている。
では、どうやって、自分たちの行動が天界のルールに合致しているか判断すればよいのだろうか。私たちの行動を分析し、その問いに答えられるのは、永遠のイデアを眺めることができる哲学者だけだ。
二つの世界の関係については逆方向からも考えることができる。下界で生きる私たちを永遠のイデアに導く人はいるかということだ。
これについては、プラトンが『饗宴』のなかで答えている。誰よりも美しい肉体がほしいと思いつづけることで、人は美という概念、ついには真理という概念に向かう。
もちろん、経験豊かな哲学者による導きは必要だろう。ほしいのは美しい肉体ではなく、肉体の美しさであることに気づいたら、第一段階は完了だ。さらに、その美しさが均衡の真理にあると気づいたら第二段階も達成される。
つまり、人が本当に求めているのは、単なる個人的な身体の美しさではなく、真理なのだ。こうしていくつかの段階を経ることで、人間はイデアの天界に向かって昇っていく。
ただし、この考え方は民主的とは言えない。知恵の人に導かれ、一部のエリートだけが真理に到達できるとプラトンは考えていた。
ニーチェによると、キリスト教はこれを民主化し、誰でも天国に行けるとすることでプラトン主義を俗化させた。哲学者の役割を教会が担い、「人民のためのプラトン主義」をつくったのだとニーチェは説明している。
このイデアの天界という基本概念は、認識論、政治論、社会論、美学に至るまですべてのプラトン哲学を貫くものであり、この基本を理解することで彼の思想全体が見渡せる。
空を見上げる才能こそが哲学だという哲学の定義そのものがそこにかかわっているのだ。そして、空を見上げる賢者の純粋なまなざしに比べると、人の行為は価値が低いものとなる。
「肉体は死ぬべし」
「哲学とは死に方を学ぶことだ」という、モンテーニュが引いたプラトンの言葉は意外に思われるかもしれないが、こうして考えると腑に落ちる。「可感界」の生活は早々に終わらせるべきものであり、多様性のなかにある非本質的な肉体は死んでしかるべきなのだ。賢人は、永遠という視点からものごとを見なければいけない。
知識について、プラトンは実に独創的で驚くべき仮説を披露している。それによると、あらゆる知識は遠くの人生から突然湧き出てくる記憶であり、再認識であるというのだ。これが、プラトンが『メノン』で説明している「アナムネーシス(想起)」というものである。