「肉体は魂の墓場」

つまり、生まれる前、現在保有している肉体、空間的にも時間的にも限定された肉体に「劣化」する以前、人間はイデアの天界に暮らしており、死ぬとまた空に戻る。誕生するまで、人は永遠の真理という「産湯うぶゆ」に浸されていた。まるで突然光が射すように何かを理解するのは、誕生前に触れていた真理を「想起する」からなのだ。

よって、知ることは常に思い起こすことであり、記憶を呼び覚ますことなのだ。知識はアナムネーシスなのである。

こうして、プラトンは「明証(エビデンス)」を説明しようとする。私たちが「明証(エビデンスの語源はラテン語のvideo=見るである)」のなかに見ているのは、下界の肉体に閉じ込められる以前、天界にいた頃に慣れ親しんだ概念のほうなのだ。

よって、プラトンにとって死は悪ではない。狭く、重く、不器用な肉体という檻から解放され、永遠の真理に回帰することなのだ。

「哲学とは死に方を学ぶことだ」というのは、死によって肉体の限界から解放されるのを待つまでもなく、思考によって永遠のイデアに到達せよという意味である。ギリシャ語で肉体は〈soma〉だが、墓は〈sema〉である。プラトンにしてみれば、肉体は魂の墓場なのだろう。といってもこの肉体という墓は一時的なものでしかない。死は魂を肉体から解放してくれる。

哲学者を王に、という考え方

政治に関して言えば、プラトンは民主主義に対して非常に厳しい目を向けており、特に『国家』では民主主義への批判が顕著である。ただし、ここで彼が批判しているのは、当時誕生したばかりの古代ギリシャの民主制であり、ここでも「イデアの天界」の原理をあてはめたうえでの批判である。

彼によると、民主制は、人々が無自覚のまま権力を手にし、人民、正義、善などの本質についてイデアを仰ごうともせず、無知のまま政権を担うことを意味する。

つまり、情動の政治であって、理性の政治ではない。国を治める方法など学んだことのない人民たちが、これまで政権の座にあった貴族への憎悪を原動力として、不公平な政治を執り行なう危険がある。

だが、これまで高い地位にあった特権階級は不当な政治を甘受しようとはしないだろう。そこで、民主制はやがて独裁に陥る。

こうして、プラトンは『国家』で「哲学者を王にする」必要性を訴え、書簡集第七巻でも同様の主張をしている。正義や徳といったイデアに基づき都市を治めるため、為政者は天界のイデアを見ることができる人物であらねばならないというわけだ。天の法則によって導かれた者こそが国を導くことができるとプラトンは考えた。