※本稿は、シャルル・ぺパン(著)永田千奈(翻訳)『フランスの高校生が学んでいる10人の哲学者』(草思社)の一部を再編集したものです。
一八七〇年に最初の本を出してから、精神に異常をきたして一八八八年に活動を終えるまでのあいだ、ニーチェは非常に精力的に執筆し、次々と多様な本を執筆したなかには矛盾する内容の作品もあり、その活動をひとことで言い表すのは難しい。
そこでまずは、年代別ではなく、その主題によって彼の作品を三つのグループに分けてみる。ほかの哲学者と異なり、ニーチェを三つの側面から語るのはある意味、当然とも言えるだろう。
ニーチェは、人格や性質について各人の奥底には常に変わらない確固たる核があるという考え、つまりアイデンティティという概念そのものを批判していた。彼以前ならヒューム、彼以降ならサルトルぐらいしか肩を並べるものがいないほど徹底した批判だ。彼にとって、アイデンティティとは、心地よい幻想でしかなく、私たちの肉体は、常に様々な本能がうごめく劇場のようなものだという。
複数の顔をもつ哲学者・ニーチェ
さて、最初のニーチェは形而上学者としてのニーチェだ。著作として該当するのは『悲劇の誕生』の一冊だけ。彼はここで普遍的原初的真理について語り、ディオニュソス(ワインの神であり、欲望と陶酔の神)という名を与えている。ディオニュソスは、「最も深いところ」で格闘しながらもエネルギーに回帰するというのがニーチェの定義だ。
この普遍的真理は、間接的な形、表面的な形を通してしか人の目には見えない。この表面的な形をニーチェはアポロン(美と外見の神)と呼んだ。形而上学者ニーチェによると、オイディプスをはじめとする古典悲劇は、アポロン的な様式のもとで、この世界のディオニュソス的な真理を提示している。
ここでいうアポロン的表現とは、劇場における上演そのものだけではなく、役者のセリフにおける言語表現や、伴奏に使われる音楽も含んでいる。つまり、芸術には、美的な形で、人々に真理を見せるという役割があるのだ。
私たちの存在そのものが悲劇
ここからニーチェの有名な「私たちが芸術をもっているのは、私たちが真理で台なしにならないためである」〔ニーチェ『権力への意志』原佑訳、ちくま学芸文庫〕という言葉が出てくる。真理には善も悪もなく、世界は狂気と逸脱の陶酔でしかない。人間の恐怖と苦しみは、神からあらかじめ与えられたものではなく、ただ私たちの存在そのものが悲劇なのである。それがニーチェにとっての真理だ。
こうした真理と直接向き合ったら、私たちは生きてゆけない。だが、幸いなことに私たちには芸術がある。ギリシャ演劇はこの真理を私たちが耐えられる形、むしろうっとりするような形で垣間見せてくれる。