破壊者としてのニーチェ

だが、第二のニーチェは最初のニーチェの対極にある。第二のニーチェは破壊者としてのニーチェ、ありとあらゆる偶像を壊すニーチェである。ここでいう偶像には、形而上学、宗教、科学、言語、そして芸術や哲学までが含まれている。辛辣な批判によって、ニーチェは、精神性や文明を気取ったところで、偶像と信仰の根本にあるのは、ある種の下等な本能、多くの場合、特に恐怖という感情であることを示そうとした。

こうして真理を信じる人間(つまり、ニーチェ自身がかつてそうだったような形而上学的な人間)は、現実の多様性に向き合うことを恐れ、偽りの真理を崇めることで逃避しようとする弱虫だと批判されてしまうのだ。

ニーチェの目には、科学者もまた自然の森羅万象を明確にしようとするあまり、認識した現象の多様性や豊かさから逃げているように見える。リンゴや木の葉や月がすべて同じ普遍の法則に従っているというのは、多様性のなかに一貫性を求めることであり、むしろ多様性の否定にあたる。つまり、本当の姿を見ようとしていないというわけだ。

フランスのコート・ダ・ジュールにある「ニーチェの道」
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すべてをぶち壊そうとしている破壊者ニーチェによれば、哲学もまた生の否定である。哲学的な概念(たとえば、自由という概念)は、多様な現象(人それぞれの自由な生き方、自由な瞬間)を一つの言葉、一つの理性的言語のもとにひとまとめにしてしまうからだ。言葉そのものが多様な現象(様々な形や色のテーブル)を一つの意味(「テーブル」という一語)に集約する機能をもっているのである。芸術でさえも破壊者ニーチェ(『偶像の黄昏』『人間的なあまりに人間的な』『道徳の系譜』)からすれば、生の否定であり、美化することで本質と向き合わない逃げの姿勢だと断罪される。

医者や心理学者に近いと自認したニーチェ

破壊者ニーチェは「鉄槌の哲学」を主張したが、ここには二つの意味が込められている。まずは偶像を壊す鉄槌である。だが、もう一つ、消化器科の医師が使う小槌のことでもあるのだ。医者は患者の膨満した腹部をこの小槌で叩き、内部の音(不安など、どんな本能が作用しているのか)を聞くことで、中の状態を「診て」病状を判断する。小槌で叩けば、人の頭が、古い考えや生の否定によって、どれほど病んでいるかもわかるというのだ。破壊者ニーチェが自分は哲学者というより医者や心理学者に近いと自認するのもこれが理由だろう。