義祖父と頼朝の浅からぬ因縁

伊豆国伊東の豪族・伊東祐親も平家方についたが、罪をゆるされた者の一人だ。

祐親は、娘を北条時政に嫁がせていたので(祐親の娘が、北条政子や義時を産んでいる)、政子をめとった頼朝とも縁戚関係にあった。

伝源頼朝像(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

祐親は捕縛され、三浦義澄(これまた祐親の娘婿)に囚人として預かりの身になっていた。義澄は政子が妊娠したという情報を得ると、頼朝に祐親の罪を赦して欲しい旨を言上する。すると頼朝は恩赦を決めるのだ。

しかし残念なことに祐親は、頼朝と対面する直前、自ら生命を絶ってしまう。恩赦の言葉を貰ったものの、これまでの数々の所業(頼朝に反抗したことなど)を恥じ、自殺したのだという。頼朝は祐親の死を悲しむと共に、その潔さに感嘆したと伝わる(『吾妻鏡』)。

さらに、頼朝は祐親の子・祐清を召して「お前の罪を許そう。褒美も与えよう」とまで言うのであった。祐清は「父は既に死にました。死んでから褒められても仕方ありません。私を死刑にしてください」と死を乞うのである。頼朝は仕方なく、祐清を処刑する。

自分を殺そうとした人間を赦せるか

伊東祐親はかつて、頼朝を殺そうとしたこともあるほど、頼朝とは因縁があった(なぜ祐親が頼朝を殺そうとしたかの真因は分からないが、『曽我物語』などによると、頼朝が祐親の三女に手をつけ、子を産ませたことが原因だとされる)。

「頼朝残酷」「頼朝ひどい」と叫んでいる人に、私はあえて問いたい。

「皆さんは、自分を殺そうとした人を、これほどまでに許すことができますか?」と。

もちろん、頼朝もただ温情ばかりでもって、敵をゆるしたわけではないだろう。

そこには、寛大な所を見せたいとか、降参してきた者を有効活用したいとか、北条氏と縁戚にある者を処刑できないとか、さまざまな思惑もあったであろう。

しかし、そうであっても、自らと命のやり取りをした敵をここまで許すというのは、度量があると感じるのだ。

上総広常がいなければ鎌倉幕府はなかった

では、ドラマで話題になった上総広常の殺害問題はどのように考えるべきなのだろう。

2万騎の軍勢をようしたという広常が頼朝に味方していなければ、頼朝挙兵は失敗していた可能性が高い。

その意味で、広常は最大の功労者であり恩人と言っても良い。そんな広常が1183年、頼朝の命令を受けた梶原景時によって、すごろくの最中に首を掻き切られ、殺害されてしまうのだ。