頼朝はなぜ広常を殺害したのか
頼朝自身の言葉として後に後白河法皇に語ったのは「広常は、なぜ朝廷のことにばかり見苦しく気を遣うのか、我々がこうして関東で活動しているのを、一体誰が止めることができるでしょうかと言うような謀反心のある者でしたので、そのような者を家臣にしていては、自分まで好運を失うと考えて、殺害したのです」という理由説明が伝わっている。(天台宗の僧侶・慈円の史論書『愚管抄』に記載。これは、1190年、頼朝初上洛の際に語ったとされる)
頼朝の言葉を信じるならば、京都・朝廷重視の頼朝、東国重視の広常との間に路線対立があり、それで頼朝が広常を粛清したと考えられる(もちろん、これは、「勝者」の言葉であり、実は広常粛清には別の理由があったかもしれないが)。
京都にいる木曽義仲討伐のために、頼朝は源範頼(頼朝の異母弟)を派遣することになるが、その軍勢派遣に広常が反対したことが、粛清の要因という説もある。
頼朝が大軍を西国に派遣するには、これに反対する実力者・広常を殺すしかなかったということである。
路線対立による粛清など、歴史上、枚挙に暇がない。頼朝のみが過剰に非難されるいわれはないだろう。
ちなみに、ドラマでは、広常が大豪族であるがゆえに、頼朝の政権の脅威となっていることが殺害の要因として描かれていた。上記のような細かい要因は説明されていない。
三谷幸喜さんは「歴史劇だから歴史を描くことはもちろんですが、大河ドラマはまず“ドラマ”であるべきというのが、僕の考え」と話している。史実から想像を膨らませ、エンターテイメント性を考慮した結果が、頼朝を残酷な人間と描くという選択だったのだろう。
人物を善悪で評価することはできない
私は本稿で頼朝を過度に弁護したいわけではない。
人間というものは、ある面をクローズアップすれば残酷な鬼にも見えるし、別の面を見つめていけば、仏や天使にも見える。
だから、例えば、上総広常や木曽義高の殺害、源義経を追い詰めたこと、義経の愛妾・静御前が産んだ男子の殺害を命じたことを連続して並べていけば、頼朝は血も涙もない冷血漢ということになろう。
一方、本稿で述べたように敵方を次々助命していることを見れば、温情ある指導者という見方が成り立とう(政敵を葬ったこともそれなりの理由があることも多い)。
善か悪か、鬼か仏かという観点でのみ、歴史上の人物を捉えることは、その人物の本質を捉えることをかえって阻害してしまう可能性があろう。