同時代の史料や後世に編纂された史書には「八重」という名は見つからないのだ。この名は後世の人によって創作されたと推察される。本稿では、便宜上、八重と記述する。

余談だが、静岡県伊豆の国市には、真珠院という曹洞宗寺院があるが、その境内には、八重姫の供養堂が存在する(八重姫御堂)。

八重の出産を知った実父がとった非情の行動

頼朝はわが子・千鶴丸の誕生を大いに喜んだが、歓迎せぬ者もいた。

不幸にも、それは八重の父・祐親であった。京都から伊豆に戻った祐親は、わが家で見知らぬ幼児を発見する。

不審に思った祐親は、妻に幼児について尋ねる。すると、八重が祐親の留守中に高貴な男性との間にもうけた子だという。

「親が知らぬ婿というものがあろうか」と激怒し、妻をさらに問い詰める祐親。

あまりの剣幕に妻も「頼朝様の子です」と白状する以外になかった。祐親は妻の答えに愕然としたであろう。

「源氏の流人を婿にとって、子まで生まれたとなると、平家方より咎めがあった時、私はどうしたら良いか」(『曾我物語』)との祐親の言葉が怒りと不安を象徴しているであろう。

祐親は家を守るために、非道の決断をする。娘・八重の元に使いの者を遣わし、千鶴を誘い出した上、川に沈めてしまったのである。

静岡県伊東市にある伊東祐親像(写真=立花左近/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons

無理やり娘を別の男性に嫁がせる

さらに祐親は、八重を頼朝から奪い返し、伊豆国の武士・江間次郎に嫁がせてしまったのであった。

この行為に、頼朝は悲しみの底に沈んだという。『延慶本 平家物語』は、頼朝は祐親を討ち取りたいとまで思ったと記す。ところが、祐親の方が頼朝を討つ準備をしていた。

このような仕打ちをしたからには、頼朝が「末代の敵」となるは必定である。そうなる前に、先手を打って、頼朝を殺そうというのである。

北条時政と頼朝が懇意になった意外なきっかけ

頼朝の窮地を救ったのが、祐親の次男・助長(『吾妻鏡』では祐清)であった。助長は「親が耄碌し、頼朝様を討とうとしているので、どこかに身を隠すように」と伝えたのだ。

どうしたら良いか迷う頼朝に、助長は「北条時政を頼んで、早くお逃げください。時政殿は、この助長にとって烏帽子親にあたる方。書状でもって、あなたのことをお伝えしましょう」と有益なアドバイスをする。助言に従い、頼朝は北条時政を頼ることになった。

頼朝が北条邸に入ると、時政は館から走り出た。頼朝の馬の手綱に取り付いて、涙を流したという。平家の敵をかくまうことに迷いもあっただろうが、時政は頼朝の訪問を喜んだ。

すぐに、時政の子・義時の宿所を、頼朝の「御所」とすることに決めている。さらに、伊東祐親の軍勢が頼朝を襲撃するために、北条に攻め込んでくる可能性があるとして、頼朝を守護した。

結果として、伊東が北条にかくまわれた頼朝を攻めてくることはなかった。