新たな伴侶と元夫が戦った結果…
江間次郎に嫁いだ八重はどうなったか。
頼朝は治承4年(1180)に平家に対して挙兵する。同年の石橋山の戦いでは敗れたものの、その後、次第に勢力を拡大。同年に平家方の伊東祐親は捕縛される。一時は一命を許されたが、「以前の行いを恥じる」と言い、自害した(『吾妻鏡』)。そして、その家人だった江間次郎も戦いの中で討たれてしまう。
つまり、八重は未亡人となったのだ。頼朝との関係を引き裂かれ、子供を親に殺され、再嫁した夫も戦死する。まさに悲劇の女性といってよい。
北条義時と八重の本当の関係
『曾我物語』によると、北条義時が江間次郎の幼い子息を預かった。
頼朝に言上して、江間の罪を許してもらうように計らったという。さらには、幼い子息が元服する際には、義時が烏帽子親にもなったといわれる。
それまでに、義時と八重に面識があったか否かは分からない。
少なくとも、ドラマにあるような幼い頃からの親密な関係であったとは、史料には全く書かれていない。おそらく、義時も八重のことは話に聞いており、その境遇に同情する程度のことはあったのかもしれない。
ちなみに、江間の地は、義時に与えられることとなった。
北条泰時が「八重の子」という説の真偽
義時と八重が結婚し、鎌倉幕府第2代執権となる北条泰時を生んだという大胆な仮説もあるが、それはどうであろうか。
この説は「鎌倉殿の13人」の時代考証を務める坂井孝一氏(創価大学教授)が『鎌倉殿と執権北条氏』(NHK出版、2021年)のなかで提示されたものだが、ご本人も「大胆な仮説」と述べておられる通り、確かな史料上の根拠があるわけではない。
2人の間に子供が生まれた史実はない
2人の関係に関する別の説もある。御成敗式目を制定(1232年)したことで有名な泰時だが、その母は阿波局という御所に仕える官女だった。義時が八重と結ばれたと唱える論者はこの阿波局こそ、八重だったというのである。
義時が江間の領主となり、江間の人々と関係を持つようになったことと、頼朝が有力御家人やその子弟の結婚に乗り出していたことが推測の根拠となっている。
しかし、この説に確かな根拠はない。平家方に付いた罪を許されたとはいえ、敵方だった武将(江間次郎)の妻を御所に入れるのかという疑問もある。義時と八重が結ばれて子までなしたかどうか真偽は不明と言わざるを得ない。
頼朝と八重との関係は古典や史料から、わずかながら浮かび上がってくるものの、義時と八重との関係は、歴史の闇に沈んでいる。