勝利の匙加減を狂わせてスポーツの価値を見失ってはいけない
勝利の追求は否定しない。だが勝利より大切なものがある。
おそらくここが、勝利至上主義の弊害を理解する上でわかりづらいところだろう。ならば競争は不要なのかとつい反論したくなる人もいるだろうが、むろん、そうではない。競争が不要なわけではないし、もしそうなら勝敗の競い合いを原理とするスポーツの存在価値は無に帰す。
競争は必要である。スポーツからそれを取り去ることはできない。競技に優劣をつけ、勝者を礼賛するシステムは尊重されなければならない。だが、その「程度」には細心の注意を払う必要がある。匙加減をどうするかが問題なのである。
スポーツにおける価値とは、心肺機能の向上や筋力の増強などを通じて身体が健やかになることや、コツをつかみカンを働かせようと内側から感覚を探るプロセスを通じて、身体の感受性が育まれることが挙げられる。他にも、容易にくじけない強靭さや主体性、積極性などを備えた心構えや自尊心を育んだり、挨拶やマナー、コミュニケーションスキルなど、所属する集団を快適に生きるための所作を身につけたりするのもそうだ。
その中で、勝利至上主義とは、勝利を最も価値あるものとみなす考え方である。
すなわち、勝利至上主義とは、先に挙げたスポーツの価値をなきものとして、勝利のみを重視する短絡思考に他ならない。あるいはこれらの価値を、あくまでも勝利を手にするために身につけるものとし、そのすべてを勝利に従属させる暴論でもある。もっといえば、勝利を手にさえすればこれらの価値は自ずとついてくるという思考停止といってもいい。
勝利はスポーツの価値を養う上での方便でしかない
勝利はこのうえない充実感をもたらす。このとてつもない恍惚は、勝利以外のさまざまな価値に向けるべきまなざしをかき消してしまう。この落とし穴を回避するためには、勝敗の競い合いはより丁寧に扱わなければならない。
勝利を目指すのはあくまでも方便であり、真の目的はそれへのプロセスで身につくさまざまな価値である。この紛れもない事実を、子供のそばに立つ大人はそのつど思い出さなければならない。スポーツを通じて、子供を「見る目」を養わなければならないのだ。怒鳴り声を上げている暇などないのである。