慰安所の料金は「30分30円」

小町園の開業は『R・A・A協會沿革史』によれば8月27日とある。

しかしRAAの情報課長であった鏑木清一は結成式のあった8月28日としている。厚木基地に米軍の先遣隊が到着したのは28日であった。

ドウス昌代は『敗者の贈物』で8月28日に大森の捕虜収容所から海兵隊員が重体の米兵を救出しており、小町園に客が入ったのは早くとも29日と思われるとしている。

このように小町園に米兵が来た初日ははっきりしないが、進駐軍用の慰安所設置の通牒が出て10日ほどで娼婦を集め施設を確保し様々な準備がなされたということである。

慰安所の料金は、30分のショートタイムは30円で、協会側と女性の折半であった。これはそれまでの吉原や玉の井などの娼館よりは割が良く、娼婦の経験者は喜んだという。

ショートタイムにしたのは、ただ数をこなすためだった。一人が終わると洗浄する間もなく次の兵士が入り込み、1日で20〜30人を相手するのはざらであった。料金は間もなくショートタイム100円になった。

慰安所の初日は、興奮した米兵で大混乱に

いずれにしろ多くの米兵が小町園に押し寄せたのは事実で、『R・A・A協會沿革史』やRAA情報課長の鏑木清一の『進駐軍慰安作戦』、『ダイヤモンド』1952年5月号の警視庁係長大竹豊後「肉体の防波堤」、『りべらる』1954年11月号の糸井しげ子「日本娘の防波堤」などでの米兵がきた初日の描写は、どれも似たように述べられている。

村上勝彦『進駐軍向け特殊慰安所RAA』(ちくま新書)

それらをまとめて再現すると次のような様子だったろう。

どこから聞いてきたかはわからないが、小町園の前の京浜国道には大勢の米兵が集まり口々に早く開けろと叫んでいた。大部屋をカーテンだけで仕切った割部屋にはカーテンに番号が書かれ、玄関で番号札を渡す仕組みにしていた。

米軍の憲兵(MP)までが出動し、順番の列を作らせていたが、番号札をよこせと叫ぶ兵士が多く、RAA協会が用意した通訳もあまり役には立たなかった。

しかも番号札を受け取り、中に入った兵士たちは、日本住宅を知らず、靴のまま上がり込み、障子やふすまをドアと勘違いし押して外してしまったり、蹴破って入るほどであった。

中には女中の案内役を芸者と勘違いしていきなり抱き付いたり、着物に手を入れようとする兵士もいて、入口や廊下は大混乱していた。男の事務員はそれまでの敵兵から睨みつけられ、英語もわからず小さくなっていた。

写真=iStock.com/Goldfinch4ever
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性の処理道具になった女性たち

小町園に最初に送り込まれた女性たちは娼妓の経験者がほとんどであったが、初めてみる大柄な黒人兵や白人兵に恐れおののき、柱にしがみついたり逃げ惑ったりした人もいた。しかし女性に飢えた兵士たちは構わず割部屋に抱え込んだ。

いくら娼妓の経験があったとはいえ、一人を終え洗浄室から戻ると裸になった次の男が待っているという状態で、休む間もなく次々にやってくる身体の大きな米兵に慰安婦の女性たちは疲れ切り、苦しそうに息をはき身体を横たえているだけであった。まさに性の処理道具であった。