終戦からわずか3日後の1945年8月18日、政府は米兵向けに女性をあてがう施設を作ることを全国の知事に命じた。日本人客は入れない施設では、なにが行われていたのか。元NHK記者の村上勝彦さんの著書『進駐軍向け特殊慰安所RAA』(ちくま新書)より紹介する――。(第1回)
性産業で働く女性のイメージ
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慰安所の場所は警視庁があっせんした

RAA(特殊慰安施設協会)が最初に開いた慰安施設が、京浜電車の大森海岸駅から2分ほどのところにあった「小町園」である。

米軍の先遣隊は1945年8月28日に神奈川県の厚木基地に到着することになっており、東京に向かう途中の京浜道路沿いの場所が選ばれた。

大森海岸には、花街と呼ばれた待合や芸妓屋が軒を並べた一帯があり、戦争中は軍需工場に駆り出された挺身ていしん隊の寮に使われていた。遠浅の海岸で海水浴場であり、ノリの養殖も盛んであった。今の平和島1丁目、平和島競艇場のあたりには戦争中、米軍や英軍ら様々な国籍の捕虜たちを集めた捕虜収容所があった。

小町園はその花街に続く料亭の一つであった。所有者は慰安所と聞いて貸すのを嫌がったが、警視庁があっせんし、RAAが借り上げたという。

10畳、20畳の部屋を小部屋にする余裕もなく、畳敷きの大部屋を布や屛風で仕切っただけで「割部屋」と呼ばれた。

8月26日に、小町園には30人ほどの女性が送り込まれた。彼女たちを乗せたトラックが本部を出発するとき、幹部たちは思わず「万歳」と叫んだという。