壁には日本娘の血の跡がしみついている
小町園の女中だったという糸井しげ子は「小町園の柱の一つ一つ、壁の一面には、日本娘の貞操のしぶきが、流した血の跡がしみついているはずなのです」と思いを語ると同時に、「戦前の落ち着いた奥ゆかしい小町園を知っている方に、終戦当時にあの悪夢のような姿を想像していただけるでしょうか」と、1954年時点で、一般の人たちには進駐軍向けの慰安所があったこと、それがどんな様子だったのか、知られていないのではないかという気持ちを表している。
RAA情報課長の鏑木清一は職業的娼婦を集めたとしているが、開店時は別として、幸楽前の大看板や新聞広告を見てやってきた多くの未経験者がいたことは事実である。