国内経済に対しても「緊張感をもって注視する」
「国民一人ひとりがベストを尽くして最悪の事態を回避する」という、日本社会の様式美が、国のリーダーたちの責任回避的な行動と、決断を先延ばしにする事なかれ主義という形で利用されてしまう。そればかりか、国民のベストエフォートを自分たちの政権の功績とすらしてしまうこともある。我田引水も甚だしい。
いま世の中では、賃金がまるで上昇しないのに、「値上げラッシュ」で物価が勢いよく上昇していく「スタグフレーション」の発生が疑わしくなっている。このような国内の経済状況についても、岸田政権は「緊張感をもって注視する」とだけ言うだけだ。その一方で増税(もしくは国民に不利益な形での税制改革)はきっちり実施しようとする。
暴動が起きる国のほうが、国と市民社会の距離は近い
岸田政権が度し難いほど「無責任」な態度を示すのは、結局のところそうしたところで国民がろくに反発せず、なおかつ生活が立ちいかなくなって大勢の死人が出たりすることもなく、やはりなんだかんだと努力してその難局をしのいでしまうことをすでに「わかって」いるからでもある。
ご存知の方も多いと思うが、他の先進各国では、国民による暴動がしょっちゅう起こっている。
その様子はしばしばニュースで報じられたり、SNSでシェアされたりする。なんて野蛮なのだ、暴動ばかりで治安の悪い国には住みたくない、やっぱり日本がいちばんだ――などと多くの人は考えるだろう。けれども、そうした「野蛮な国」の方が政治家に“本当の緊張感”を与える。少なくとも「緊張感をもって注視していく」などと薄っぺらいことを言ってられないくらいには。
国民がなんでも「お願い」を聞いてベストを尽くして問題を解決してしまう国は、一見すると国と国民との距離が近いように見える。だが実際には両者は甚だしく遠い距離にある。国は自分たちに責任が希薄な下々のことなどなにも考えずに済むからだ。国民がしょっちゅう暴れまわる国の方が、国と市民社会との距離は近く、なおかつ緊張関係をもとに対話が成立する。