一度も決勝の舞台に立てなかったが…

僕らも真摯しんしに決勝を目指したが、一度も行けなかった。1回戦で落ちたことが3回もある。けれど今、相方の吉村は芸能界の一線で頑張っているし、僕は僕でちょこちょこといろいろなお仕事をさせてもらっている。

だからM-1グランプリの決勝に進めなくたって、優勝しなくたって別にいい。とどのつまり出なくたっていい。いいんだろうけれど、その夢を見て努力して答えのない未来と衝突した過去は確かに存在する。今思えば、それはとても大きい財産になっているという実感がある。

一夜で芸人がヒーローになれる活劇物語

2001年、中川家さんがM-1の初代王者となった。当時の中川家さんと僕は面識がなかった。東京と大阪で離れていたし、芸歴も8年差があった。今見返しても、あの貫禄でまだ10年目とは驚きだ。

今で言えば、霜降り明星やニューヨークと同じくらいだ。中川家さんは若い頃から円熟味があった。その上、M-1優勝後も熟成を繰り返し続けるモンスターでもある。そんな中川家さんだが、M-1に出場したとき、これで優勝しなければお笑いを辞めようと思っていたらしい。

今から20年前、芸能界はもっと殺伐としていた。2020年のM-1決勝で初めて注目を集めたコンビ「錦鯉」のように、50歳を目前にブレイク――そんなことはあり得なかった。才能のある人は20代から売れ続け、30歳前にはもう冠番組を持っている。そうじゃない人間はとっとと辞めた方がいい。そんな時代だった。

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中川家さんは、決勝戦で不利と言われるトップバッターで見事優勝を飾る。トップバッターでの優勝はこれまでの17会のうち、中川家さんだけだということからも、そのすごさが伝わるだろう。

2021年の今でも第一線で活躍し続け、吉本の聖地・なんばグランド花月(NGK)ではトリを務めるようになった。

M-1グランプリという、一夜で芸人がヒーローになれる活劇物語が2001年に産声を上げたのだ。

その年は、同期のキングコングも決勝に進出していたが、僕にはまだ嫉妬という感情すらわかなかった。

アンタッチャブルを前に何もできなかった

2004年はアンタッチャブルさん。僕には頭にこびりついて離れない痛烈な記憶がある。

僕らがまだコンビを組んだばかりの頃、テレビ朝日に「虎の門」という深夜バラエティ番組があった。ほかのバラエティではやらないような、“尖った”企画ばかりトライする番組だったのだが、そのなかに若手がネタをするコーナーがあった。

そのMCがアンタッチャブルさんだった。僕らも出演し、もちろんその時が初対面だ。突風が吹き抜けたかと思ったら、僕らの出番は終わっていた。何を喋ったかも覚えていない。だが、スタジオは確かに笑いに包まれていた。僕らは「はい」「そうですね」「分かんないです」と、ただ単純な返答しかしていなかったはずだ。

ザキヤマ(山崎弘也)さんと柴田さんが、一瞬の隙もなく言葉を放ち続け、それがすべて笑いに変わっていった。ひょっとしたら僕らの出番を観た人は、「ノブシコブシがウケた!」そう思ったかもしれない。だがそんなことはなかった。何もできなかった。自分たちは一歩も動くことなく、何の個性も発揮することなく終わった。それは圧巻だったし、絶望だった。それくらいアンタッチャブルはすごかった。