どんな働き方であろうと野菜の値段は同じ

しかし実は、そこにこそ「やりがい搾取」の出発点があります。「労働」としての意味合いが多分に含まれた働き方によって生産された野菜でも、楽しみを含んだかつての「仕事」によって作られた農産物と同じ価格でしか売れないからです。

農家に求められる結果は変わりません。農家に求められるのは、どこまで行っても高品質な農産物を生産することです。仮に高度な科学技術が用いられた農業であっても、高品質な農産物を栽培することの背景にあるのは、苦役としての労働ではなく作物への愛情なのです。

作物への愛情は、そう簡単に身に付くものではありません。わが子がかわいい理由と同じように、作物のことを考え続けることの中にこそ、愛情は存在しているからです。しかし働く時間は変わりませんし、やらなければならないことは結局同じ。より美味しい作物、より見栄えのよい作物、けれども値段の変わらない作物を作るとなると、やらなければならないことは増えていくばかり。仮に農業の楽しみを見出そうとするなら、働く時間を長くするしかありません。

楽しみ半分の仕事で作った野菜であれば、安くても良いかもしれません。農業をしているだけで充分楽しいなら、わざわざ休みを取って旅行に行く必要もない。しかし、現代社会ではそうはいきません。農作物の価格が変わらなかったとしたら、一心不乱に働かなければ生活が成り立っていかないのです。

日本の300円のサラダの方がNYの15ドルのものより高品質

労働の苦労が価格で取り戻せるならまだいいでしょう。しかし、今や高品質な野菜のイメージが、デパートどころか激安スーパーでも受容されているのです。これは日本の農産物流通の特徴です。「安かろう悪かろう」どころか、「もってけ泥棒」のタダ同然で売られる激安キャベツにまで、最高品質が求められるのです。例えば普段100円で売られている小松菜が安売りで1束58円で売られていたとしても、ぐちゃぐちゃに袋詰めされていたら購入意欲が削がれるはずです。安売り大特価の場合でも、求められる品質は一緒なのです。

写真=iStock.com/recep-bg
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日本の農作物が、ヨーロッパやアメリカに比べて過剰包装だと言われる所以です。もし腑に落ちないようなら、アメリカやヨーロッパのスーパーなどをGoogle画像検索で見て、比較してみてください。日本のスーパーの様子とは明らかに異なることがお分かりになるはずです。

スーパーだけではありません。私が2019年にニューヨークにレンコンの営業に出向いた際、マンハッタンのグランド・セントラル駅近くにあるホテルの売店で買った15ドルのサラダボウルには、青虫が食べるようなゴソゴソのケールが入っていました。日本のコンビニで300円で購入できるサラダと比べて遥かに劣る品質です。物価の違いもあるので単純な比較はしにくいですが、その価格差はおよそ5倍。極めて高い品質基準を求められているのにもかかわらず、あくまでも安売りを続けてきたのが日本の農業なのです。