成田詣での一行が往路・復路の宿泊地とすることが多かった船橋は宿場町として成田街道、東金とうがね街道、房州街道、銚子街道の分岐点であるだけでなく、漁港として栄えた町でもあった。水陸交通の要衝として賑わったが、その賑わいに拍車を掛ける旅籠屋があった。

遊女を置いていた「飯盛めしもり旅籠」である。

成田詣ででは成田街道船橋宿、相模国大山寺への参詣(大山詣りという)では東海道藤沢宿での精進落としが定番だった。

この精進落としには飲食はもちろん、遊女屋での遊興も含まれていたのは言うまでもない。成田詣でや大山詣りに限らず、寺社参詣後の精進落としは男たちの密かな楽しみとなっていた。

要するに寺社参詣が、遊興を楽しむための方便となっていた事例が多かった。この精進落としなどは最たるものだろう。

遊女を抱えた飯盛旅籠は参詣客で大繁盛

幕府は吉原など特別に認めた場所以外での遊女商売を禁じており、旅籠屋での遊女商売は本来認められないはずであった。

しかし、旅人に給仕する女性を飯盛女という名目で置くことは容認していたのである。

安藤優一郎『江戸の旅行の裏事情』(朝日新書)

見て見ぬふりをしたのだ。ほぼ黙認されており、江戸っ子が寺社参詣にかこつけて宿場町で精進落としができたのも、旅籠屋が飯盛女を抱えていたからに他ならない。

幕府は旅籠屋一軒につき飯盛女は二名が上限と定めていたものの、上限を超えた旅籠屋は珍しくなかった。

といっても、旅籠屋に必ず飯盛女が置かれたわけではない。置かない旅籠屋(ひら旅籠という)もあったが、多くは飯盛女を抱えることで大いに繁昌した。宿場の繁栄にもつながっていたことも事実である。

宿場全体の運営は、その主役たる旅籠屋や茶屋から徴収する「役銭やくせん」で支えられた。いわば営業税のようなもので、なかでも飯盛女を抱える旅籠屋が納める役銭は多額だった。それだけ利益を上げていたが、飯盛女の揚げ代が原資なのであった。

なお、宿場で遊女商売を営んだのは旅籠屋だけではなかった。茶屋も給仕する女性を遊女として密かに働かせていた。飯盛女とともに宿場を陰で支える存在だった。

船橋宿の飯盛旅籠では飯盛女(遊女)が盛んに旅人の袖を引いたが、その遊女は「八兵衛」と呼ばれたという。旅籠屋のうち飯盛旅籠が半数以上を占めた藤沢宿でも同じような光景が繰り広げられていた。

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