「現実の競争世界の劇画」として感受されている可能性がある
そして、当然のことながら格差社会化は韓国だけの話ではない。
小さな政府と規制緩和を軸とした新自由主義化を主導したのは、80年代アメリカのレーガン政権とイギリスのサッチャー政権、そして日本の中曽根政権だが、それは現在にいたるまで国際経済の大きな流れを作ってきた。
だが、新自由主義による格差社会化は貧困など大きな問題を生じさせてもきた。近年、とくにそれは大きな問題として意識されており、先月発足した岸田内閣も再分配政策の見直しを含む「新しい資本主義」を掲げているのは記憶に新しい。
こうした状況は、近年エンタテインメントにも特徴的に反映してきた。たとえばイギリス映画の『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016年)と日本映画の『万引き家族』(2018年)はともにカンヌ映画祭で最高賞を受賞し、ハリウッド映画の『ジョーカー』(2019年)と韓国映画の『パラサイト 半地下の家族』(2019年)はアカデミー賞でオスカーを競った。これらはすべて格差や貧困を描いた作品だ。昨年オスカーを獲得した『ノマドランド』(2020年)も先進国の“遊牧民”をモチーフとしていた。
それらが、イギリス・日本・アメリカ・韓国の作品であることはけっして偶然ではない。そして、『イカゲーム』もこの文脈にある作品と捉えられる。そのデスゲームは、現実の競争社会の戯画として全世界的に感受されている可能性がある。
世界中が「現実社会への強烈なアイロニー」と共振している
格差社会・競争社会の背景には、それを肯定する「能力主義(メリトクラシー)」がある。「能力」は個々の努力だけで得ることができるわけではなく、そもそも生育環境に大きな影響を受けることは各種調査から明らかとなっている。
最近もマイケル・サンデルが指摘するように(『実力も運のうち』)、こうした能力主義(メリトクラシー)は自己責任論を生じさせやすい。「やればできる」というメッセージ(能力主義)には、「できなかったら自分のせい」という苛烈なメタメッセージ(自己責任論)が潜んでいる。
従来のデスゲーム作品の多くが等閑視してきたのは、この自己責任論だ。登場人物の多くはゲームに翻弄されるだけで、しかも軽い調子で描くことで死の重さを覆っていた。
だが『イカゲーム』は、参加者の死をしっかりと描く。悲痛で残酷で絶望的なその終わりを最後まで見せつける。それは、新自由主義社会の自己責任論をデスゲームのメタファーを使って最大化しているからだ。
無論のこと、これは現実社会への強烈なアイロニーだ。そして『イカゲーム』のグローバルヒットは、世界中が強いアイロニーと共振していることにほかならない。