アメリカの「赤狩り」と毛沢東の「文化大革命」
ポピュリズムの多くは、カリスマ的なリーダーの出現が契機になっていますが、別の形もあります。「同調圧力」です。これは、社会にうずまく不安や不満、憎悪などをたたく大衆運動がエスカレートした結果、「さすがにやりすぎだ」と皆が気づいたときには、誰もそれを言い出せなくなる形。いわば「魔女狩り」のような雰囲気です。
冷戦期には、これに近い形が、東西両陣営で起こりました。アメリカの「赤狩り」と中国の「文化大革命」です。
赤狩りとは、冷戦初期に起こったアメリカの共産主義者狩り。冷戦対立が深刻化する1950年前後、ハリー・トルーマン大統領が共産主義への不安と憎悪をあおり、ジョセフ・マッカーシー上院議員がそれを誇大に強調することで、国民の支持を集めました。
下院議会には、赤狩りの調査機関として非米活動委員会が設けられました。そして、この委員会が国務省の職員や社会主義国の専門家、大学教授、労働組合員などを、そのほとんどが無実であったにもかかわらず、徹底的に糾弾し、公職追放や非共産主義者宣言に追い込みました。この運動は1954年まで続きましたが、その間アメリカ社会は、大衆も政治家も知識人も、保身のために反共的な発言しかできなくなり、人々は同調圧力に苦しめられました。
文化大革命は1966年、毛沢東時代の中国で、毛自身が扇動して巻き起こした大規模な大衆運動です。建前上は「破旧立新(古きを捨てて新しきを打ち立てる)」のための革命でしたが、実際は国家主席の座に就いた劉少奇とその一派を「走資派(社会主義を見限り、資本主義に走る一派)」とし、打倒するための権力闘争でした。
そこで毛は若者を利用しました。「紅衛兵」です。紅衛兵は社会主義を守るための青少年組織で、毛は元々エリートに反感のあった庶民の子らを紅衛兵に選び、自らの政敵を一掃するための暴力装置に仕立てあげたのです。
かくして「造反有理(反逆には道理がある)」のスローガンを掲げた紅衛兵たちは暴れ回り、劉少奇一派だけでなく、少しでも毛の価値観から外れた者には、容赦なく暴力を振るいました。その暴力は毛から「革命」として肯定されているため、歯止めがききません。大衆は明らかにおかしいと気づきながらも、暴力的な紅衛兵に逆らうすべもなく、同調して彼らに加担する以外ありませんでした。
最終的に内部統制がきかなくなった紅衛兵たちは、毛からも疎まれ、「下放」の名の下に農村労働へ追放されましたが、彼らから始まった中国の大混乱は、毛が亡くなる1976年まで収まることはありませんでした。
一度ポピュリズムの火がついてしまった社会は、その混乱が収まるまでに多大な時間と犠牲を要します。結局、指導者選びと同調圧力には、細心の注意が必要なのです。