古代ギリシャ・アテネの衆愚政治

古代ギリシャの都市国家アテネでは、紀元前5世紀頃から民主政が始まりました。それも市民が全員参加する直接民主制で、最高権力者である執政官(アルコン)も、貴族からの選出ではなく、平民からくじ引きで選ぶようになりました。

この基礎をつくりあげたのが、ペリクレスです。彼は「われらの政体は、少数者の独占を排し多数者の公平を守る民主政治」と宣言し、民衆を正しい方向へ導くよう指導しました。しかし、ペリクレス亡き後のアテネには、自らの野心のために大衆を利用しようとしたクレオンらの扇動政治家(デマゴーゴス)が登場し、政治的判断力が不十分な大衆を詭弁きべんによって誤った方向に誘導し、アテネをペロポネソス戦争敗北へと導いてしまいました。こういう流れを受けて、哲学者プラトンは民主政を“衆愚政治”と批判したのです。

プラトンとアテナの彫像
写真=iStock.com/araelf
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ちなみにプラトンは主著『国家』で、「大衆が過度に自由を求めたとき、民主政は独裁者を生む」と指摘しています。確かに自由を求めすぎる民衆にとって、抑制の利いた政治などただのストレス。ならば選挙の際、自分たちと同じニオイのするリーダーを選べば、彼が分別ある人々を制圧して大衆に「我慢のいらない自由」を供給してくれるわけです。私はパッとトランプ氏の顔が浮かびました。大衆に我慢を求めないリーダーは、要注意ですね。

ナチスのポピュリズムを効果的にしたものとは?

ポピュリズムの歴史を見るうえで絶対はずせない人物が、アドルフ・ヒトラーです。

ヒトラーといえば「ドイツ国民を全体主義で抑圧した独裁者」というイメージで、大衆から熱烈に支持されるポピュリストとは無縁に思われがちですが、違います。彼はドイツ国民が、選挙という民主的な手段で、自ら選んだ独裁者です。

民主主義は「多数決による合意」を基本とするため、リーダーシップが不在になりがちですが、有事に強いリーダーがいなかったドイツでは、それが短所として露呈し、大衆に「民主主義への幻滅」を強く与えてしまいました。そこで大衆が、有事に自分たちを導いてくれる強いリーダーを求めた結果、ヒトラーという独裁者を誕生させてしまったのです。

当時、ナチス党は小政党としてくすぶっていましたが、1929年の世界恐慌を境に、ヒトラーがさまざまなメディアを通じて、既存政党を悪と断じて激しく批判すると同時に、国民に「強いドイツをよみがえらせてくれるのは、民主主義か強いリーダーか?」と選択を迫った結果、1932年の選挙で勝利し、与党の座を勝ち取ることができたのです。

ヒトラーのカリスマ性を前提としたナチスのポピュリズムを、より効果的に演出したものは「宣伝」でした。ナチス政権は1933年に「宣伝省」をつくり、ヨーゼフ・ゲッベルスを宣伝大臣として国民啓蒙・国威高揚・敵の排除などのための宣伝を積極的に行いましたが、そこではラジオが大きな役割を果たしました。

ヒトラーの演説は弁舌巧みなうえ、内容も、単純明快・敵味方の断定・わかりやすい解決方法・選択を迫る口調などで磨き抜かれた見事なものだっただけに、活字よりも肉声のほうが、はるかに大衆扇動効果が高かったのです。

ですから宣伝省はラジオの普及に力を入れ、1940年には、ほぼ全家庭に国民ラジオ(海外放送は受信不可)が行き渡るまでになっていました。

しかし、こうしてヒトラーの演説に扇動されたドイツは、この後全体主義へと進んでいきます。ナチスが国家の維持の妨げになるものを徹底的に排除した結果、ユダヤ人、共産主義者、同性愛者、障害者などは、さまざまな理由で弾圧されました。

また、そのための組織も整備され、ヒトラーや党幹部の特別護衛組織が「親衛隊(SS)」、ナチス党の民兵組織が「突撃隊」、従来までの警察組織は「秘密警察(ゲシュタポ)」に再編成され、ドイツは危険な方向に流れていくことになったのです。