隔離や検疫とはステージが異なる「人権制限」

ロックダウンでの公益と人権のバランスを考える上で大事なのは、どれだけの人数の人々が、どの程度の不自由や不利益を耐え忍ばなければならないのか、というところだ。

まず、どれだけの人が影響を受けるのかを考えるため、隔離と検疫とロックダウンを比べてみよう。

隔離と検疫は言葉の使い方でブレはあるのだが、症状のある感染者を病院に収容して、ほかの人との接触を断ち切るのが隔離である。

感染しているかどうか正確にわからなくても、感染の疑いのある人を、一定期間(たとえば2週間)区切って、ほかの人との接触を断ち切るのが検疫である。

そして、ロックダウンとは、健康な人も含めてすべての住民を対象として、ほかの人との接触を断ち切ろうとするものである。

つまり、行動制限の対象が、感染者という少数者への措置から始まって、感染の疑いのある者を含むようになり、その地域の全人口まで拡大していくのがロックダウンということになる。

ある種の人々(感染者や疑い者)だけに限定するのではなく、全員に行動制限するという点で、ロックダウンは隔離や検疫とは違うステージにあるといえる。

いいかえれば、住民の誰もが感染疑いというレベルにまで状況が悪化していない限りは正当化できないほどに、思い切った人権制限ということだ。

「目的達成に真に必要とされなくてはならない」

次に、そうした行動制限で、どの程度の不自由や不利益が生じるのかとの点を考えよう。

具体的にどういう措置がロックダウンに含まれるかは最初に説明したとおりだ。だが、問題は、行動制限の厳しさそのものではなく、感染症の予防や制圧という公益と、基本的人権である集会の自由や移動の自由や自由な経済活動などの制限との相対的なバランスだ。

この是非を判断するうえで役立つのが、1985年に国連の人権委員会で正式に認められた国際基準である「シラクサ原則」の、人権の制限が認められる場合の5つの基準である。

(1)制限の内容は法に規定され,法に基づいて行使される。
(2)制限は公共の利益にかなうものでなくてはならない。
(3)制限は目的達成に真に必要とされなくてはならない。
(4)同じ目的を達成するのに、より侵襲や制限の少ない代替手段がない。
(5)制限は科学的証拠に基づかなくてはならず、理不尽だったり差別的だったりしてはならない。