厳重な監視社会でないと実効性は上がらない

ここでは三点にまとめてみよう。

一つは、ここまでロックダウンの中身として解説したとおり、ロックダウンは一時しのぎに過ぎないので、新型コロナ対策として過剰に期待するのは禁物だという点だ。

ロックダウンよりも大事なのは、ロックダウンでの時間稼ぎの間に何を優先して次の流行に準備するかの明確なロードマップである。

第二に、ロックダウンの対策としての実効性が、現在の「お願い」に比べてどの程度あるのかという点も疑問だ。

ほんとうに強制するのなら、スマホのGPS機能の利用、監視カメラの顔解析、街中での職務質問、身分証の常時携帯などがなければ不可能だ。

セキュリティカメラ
写真=iStock.com/PhonlamaiPhoto
※写真はイメージです

違反者をもれなく処罰するには、生活の隅々にまで監視を行き届かせて、だれがどんな目的でどれくらいの頻度で外出したかをチェックできるように、きめ細かな監視網を必要とするだろう。

少なくとも私は、いくら健康のためでも、そんな監視社会は願い下げだ。

強権的な独裁国家ではない欧米などでもロックダウンが可能だったのは、人々がロックダウンの趣旨を理解し、すべての住民が公平に行動制限に従うことで納得し、公益のために協力していたからだろう。

罰則があるから従うというのは、ごく一部のことに過ぎない。

日本では、既に、公益のために感染症予防に協力することは、おおむね、これまでも行われてきた。

この経緯を踏まえれば、さらに罰則や法律を付け加えることが、どれだけ現状にプラスした実効性をもつかどうかは疑わしいと思う。

感染拡大を制圧できるのは強制力でなく現場の智慧だ

第三に、ロックダウンの法制化の是非という論点に見え隠れする「これまで法律がないため、対策ができなかった」という理屈は、政府の弁解のように見える点だ。

「ルールがないので、できません」というのは、官僚的に硬直化した大企業やお役所仕事で頻繁にみられる言い訳だ。

ルールや前例がないからこそ工夫して何とかやりくりするのが、臨床も含めた現場の智慧だ。

知り合いの医療者からは、新型コロナの患者の自宅放置(自宅療養ともいう)に対して、ケアの現場で不安を鎮め、急変を察知するためのさまざまな工夫があった事例を聞く。

新型コロナ以外でも、持病のある高齢者が自宅待機を続けることで足腰が弱ったり、社会的な刺激が減って認知症が進行したりするのをどう防止するかの努力が、小さいながらも一つひとつ積み重ねられている。

今後、流行が再発しロックダウン的なことが必要となったとき、感染症を制圧するためのソーシャルディスタンスの徹底を実行可能にするのは、紙切れに書かれた法律でも警察力でもなく、ソーシャルディスタンスのしわ寄せを受ける人々をサポートする現場の智慧の共有とそれを支える政策である。

ロックダウンありき、法律ありき、ではなく、人々が健康に暮らす権利を守るために国家には何ができるかという根本に立ち返っての議論が肝要だ。

【関連記事】
ブッダの言葉に学ぶ「横柄でえらそうな人」を一瞬で黙らせる"ある質問"
緊急事態宣言下で「自粛をやめてしまった人」の頭の中で起きている"ある変化"
「選手村の外は感染対策ユルユル」海外メディアが報じたコロナ禍の東京五輪の姿
「感染拡大防止を最優先に」なぜ菅首相は堂々とそんなウソを繰り返せるのか
橋下徹「コロナ禍1年半でコロナ病床はなぜ増えないか」