この背景には、組織開発先進国である米国では、組織を設計して、分業と調整の体制を決定したとしても、そのなかに入るのは、多様な人材であり、文化や価値観が多様ななかで、効果的な組織として成立するためには、もうひと工夫が必要だったということがあるのだろう。

実際、米国の多くの企業では、組織づくりをミッションとするOD部門が、人づくりをミッションとするHRM(人材マネジメント)部門よりも大きな位置を占めており、こうした理由から、組織開発は、経営的に見て、とても重要な機能だったのである。優秀な人を外部労働市場から確保できても、組織づくりは、自分でやらなくては絶対に手に入らないということかもしれない。

また、グーグル、ナイキ、マイクロソフトなどの米国発ベンチャー型企業では、強烈な個性を持つ自律型人材の活躍が強みの源泉であり、そこでは、組織としての一体感、コミュニケーションなどを、積極的につくりこんでいかないと、組織としてのまとまりが確保できないこともあったのであろう。こうした企業では、ODは極めて中枢的な位置づけになっている。

すでに述べたように、こうした状況に比較して、わが国の多くの企業では、これまで人を集めれば、自然に組織になるという状態(または思いこみ)が、ある程度存在していたので、それほど、組織としてのまとまりの積極的なつくりこみは必要なかったのかもしれない。または、日本の企業で働く人が、これまであまり自律的ではなかったので、わざわざOD部門をおいて、組織のまとまりや一体感をつくりこむ必要を感じなかったのかもしれない。いずれにしても、米国ほど、組織開発が積極的になされてこなかった背景には、こうした要素があるのだろう。

でも、これからもこのままでいいのだろうか。今、人材面でのダイバーシティが進み、働く人の価値観が多様化するなかで、組織としてのまとまりや一体感、コミュニケーションなどという「組織資産」は、もう自然に確保できるものではなく、そこに投資をして、積極的に確保するべき時代に来ている。人が集まれば自然と組織に、とはならなくなってきたのである。