「同じだけどちがう」という二重のアイデンティティ
徹底的に社会的な動物であるヒトは、自分を集団と一体化すると同時に、集団のなかで自分を目立たせるというきわめて複雑なゲームをしている。それぞれの集団には固有の“しるし”があり、それを身につけていないと排除されてしまう。
これが“アイデンティティ(帰属意識)”で、人類が進化の大半を過ごした旧石器時代には、集団に属していない個体は生き延びることができなかった。
子ども時代に誰もが思い知らされたように、特定の「友だちグループ」に所属するには、ファッションや音楽、ゲーム、スポーツの趣味など、暗黙の“しるし”を共有しなければならない。
子どもたちは“しるし”の微妙なちがいをたちまち見分けて、「仲間」か「よそ者」かに分類する。こうして、特定の集団(“ギャル”や“パリピ”)に属することで固有のパーソナリティを身につけていく。
だが、たんに自分を集団と一体化させるだけでは、子孫(遺伝子)を最大化するという進化の適応(「利己的な遺伝子」の目標)を達成できない。
異性を獲得するためには、その集団のなかで目立つ「個性」をつくらなければならないのだ。紛らわしいことに、この個性も“アイデンティティ(自分らしさ)”と呼ばれている。
生存(生き延びるために特定の集団に一体化すること)と生殖(異性を獲得するために集団のなかで目立つこと)のためには、社会的アイデンティティと個人的アイデンティティを巧みに操らなければならない。
この「同じだけどちがう」キャラ(役割)を、わたしたちはパーソナリティとして知覚するのだ。