環境決定論の残酷な「差別」

うじが半分、育ちが半分」といわれるように、遺伝と環境の相互作用によって一人ひとりのパーソナリティがつくられていく。行動遺伝学は長年、一卵性双生児と二卵性双生児を比較するなどして遺伝の影響を検証してきたが、パーソナリティの遺伝率は平均すれば50%程度とされている。

知能については年齢とともに遺伝率が上がり、思春期を過ぎると70%を超えることがわかっている。音楽やスポーツの能力も遺伝率が80%近くなる。性格や才能、認知能力から精神疾患に至るまで、人生のすべての領域に遺伝がかかわり、その影響は一般に思われているよりもかなり大きい(※3)

ここで重要なのは、「極端なものほど遺伝率が高くなる」という法則だ。

恋人から別れ話を切り出されたとか、仕事で失敗して上司から叱責されたとか、さまざまなネガティブな出来事によって抑うつ的な気分になることは誰にでもあるだろう。

もちろんここにも遺伝の影響が働いていて、それが「打たれ強い」とか「こころが折れやすい」という傾向に関係するのだろうが、日常的なうつや不安の原因の多くは環境によるものだ(転校や転職で心理的な問題が解消するのはこのためだ)。

平均付近(平均+−1標準偏差以内の全体の70%)では生得的なものよりも環境の影響の方が大きいとすると、あるときは外向的で別の機会には内向的になったり、日によって楽観と悲観が入れ替わるのはよくあることだ。この場合、(「あのひとは外向的/内向的」などの)パーソナリティのレッテルを貼るのは適切ではない。

だがうつ病や双極性障害(躁うつ病)、統合失調症のような精神疾患になると、遺伝率は70~80%まで上がる。こうした症状は、環境を変えたくらいでは容易に変化しない。精神疾患は「病気かそうでないか」の二者択一ではなく連続体(スペクトラム)で、極端な症状ほど遺伝の影響が大きくなる(※4)

日本ではいまだに、自閉症のような発達障害や統合失調症などの精神疾患の子どもに対して、「やっぱり子育てに問題があるんじゃないのか」とのこころない決めつけがあり、ただでさえ困難な境遇を強いられている親をさらに苦しめている。

「リベラル」な社会では、遺伝の影響を語ることは「ナチスの優生学と同じ」と徹底的に忌避され、子育てや家庭環境の影響が過剰に強調されている。

こうして、一部の恵まれた母親が「自分はいかにして子育てに成功したのか」を得々と語り、その陰で子どもの問題はすべて「親が悪い」とされることになった。

「なにもかも生まれたときに決まっている」という遺伝決定論は誤りだが、その一方で、「子育てですべてが決まる」という極端な環境決定論が残酷な「差別」を生み出しているのだ。

※3 安藤寿康『遺伝マインド 遺伝子が織り成す行動と文化』有斐閣
※4 ケリー・L・ジャン『精神疾患の行動遺伝学 何が遺伝するのか』有斐閣

家庭環境より子供集団内でのキャラに起因

パーソナリティの遺伝率が5割ということは、残りの半分は環境の影響になるが、行動遺伝学ではこれを「共有環境」と「非共有環境」に分けている。

これは何度も指摘してきたことだが、行動遺伝学のもっとも驚くべき知見は、遺伝の影響が(リベラルなひとたちが望んでいるより)ずっと大きいことではなく、共有環境の影響がほとんどゼロにちかいことだ。

共有環境というのは、成育にあたってきょうだいが共有する環境のことで、(諸説あるものの)家庭環境=子育てと考えればいいだろう。非共有環境というのは、きょうだいが別々に体験する環境のことだ。

日本だけでなく世界じゅうで、子どもの人生は子育ての巧拙によって決まると当然のように信じられている。だが行動遺伝学は、この常識がきわめて疑わしいとの膨大な知見を積み上げてきた。ほとんどの研究で、パーソナリティにおける共有環境(家庭環境)の影響はものすごく小さいのだ。

晴れた日にパパイヤを食べる家族
写真=iStock.com/Anna Frank
※写真はイメージです

だとしたらなにが子どもの人生を決めるかというと、それは遺伝と非共有環境になる。

惜しくも2018年に亡くなった在野の発達心理学者ジュディス・リッチ・ハリスは、「非共有環境とは子ども集団のなかでのキャラ(役割)のことだ」という独自の理論を20年以上前に唱え、「子育ての努力には意味がないのか」との論争を巻き起こしたが、いまだにこれを超える説得力をもつ理論をアカデミズムは提示できていない(※5)

――それにもかかわらず発達心理学者の多くは、いまだに行動遺伝学の頑健な知見を無視して、母子関係(最近では父子関係も)の重要性をひたすら強調している。

※5 ジュディス・リッチ・ハリス『子育ての大誤解 重要なのは親じゃない』ハヤカワ文庫NF