「価格は1万~5万円」わが子をやむを得ず手放す親も…

もちろん、それは表向きの理由で、実質はこの機会に貧乏人の足元を見て下人を買いあさり、経営を拡大しようとする富豪たちの利益を幕府が保護しようとした、と考えることもできる。

しかし、幕府法以外でも、飢饉における人身売買は特例である、という意識は思いのほか社会に浸透していたようだ。次に紹介するのは、この頃に父母がわが子を他人に売却したり、質入れした人身売買文書のなかの一節を現代語訳したものである。

*「去る寛喜の大飢饉のとき、父も息子二人も餓死寸前であった。このまま父子ともに餓死してしまっては意味がない」(13歳と8歳、代400文と110文、1236年、『嘉禄三年大饗次第紙背文書』)
*「この子は飢餓で死にそうです。身命を助けがたいので、右のとおり売却します。……こうして餓身を助けるためですから、この子も助かり、わが身もともに助けられ……」(8歳、代500文、1330年、『仁尾賀茂神社文書』)

いずれも飢饉でやむを得ずわが子を売却するのだ、という親の心情が切々と綴られている。このうち、まず注目してもらいたいのは、ここでの彼らの売却価格である。彼らは500文から110文と、相場の4分の1から20分の1の値段(ほぼ5万円から1万円!)で売却されてしまっている。

それだけ飢饉時には困窮者や破産者が続出して、人身売買相場も異常なデフレ現象をみせていたのだろう。ただでさえ人身売買は禁じられているのに、こんな破格の値段での人身売買は到底許されることではない。

人身売買は社会を維持するサブ・システムだった

それでも幕府は黙認せざるを得なかった。理由は、これらの文書に綴られているとおり、「餓身がしんを助からんがためにて候」、あるいは「父子ともに餓死のじょう、はなはだ以てその詮なし」。すなわち、このままでは当人も親も餓死してしまう、それなら、一人が下人に身を落として、当人も親も助かるほうがマシである、というギリギリの選択だったのである。

こうした当時の人々の意識に押されて、鎌倉幕府も飢饉下の人身売買には目をつぶらなければならなかったし、本来違法である人身売買でも、その売買契約書に「飢饉下である」旨が記載されていれば、合法扱いとされたのである(さきに挙げた人身売買文書の一節も肉親の情愛が吐露された文面とみることもできるが、一方で、本来は違法である廉価の人身売買契約を合法化するため、主人側から求められて書かされた可能性もある)。

この後も戦国時代まで、日本中世では「飢饉」や「餓死」を理由に、人身売買は半ば合法化されることになる。飢饉にともなう人身売買は、中世社会を維持するためのサブ・システムとして、社会の構造に組み込まれていたわけである。