「毎日パチンコを打つ生活じゃないでしょうね」
屈辱的な勧告が大道芸人誕生のきっかけとなるのだが、伏線がその二年前にあった。
57歳になった栢木さんにある日、奥さんはこう言った。「定年退職をしたらどうするの? 毎日パチンコを打つ生活を送ったりするんじゃないでしょうね」。そう言われた栢木さんはこれまでの人生を振り返った。
子供のころ、運動会ではからきしだったが、学芸会では必ず声がかかった。物怖じせず、大きな声を張り上げることができたからだった。舞台が終わればみんなに褒められる。人前で演じることが楽しいと思った。
そこで高校では落語同好会を作った。芸名は三田亭楽大。古典落語の演目の一つである「芝浜」は、夫婦の愛情を暖かく描いた人情噺として知られるが、これを得意とした三代目桂三木助のテープを何度も聞いて真似た。三田高校の同好会メンバーは十数人を数えるようになり、後輩にはプロの落語家になる人も出た。
「パチンコ三昧じゃないでしょうね」という奥さんの一言で、それまでの人生を振り返った栢木さんは、「定年後は人を喜ばせることに専念しよう」と考え、日本古来から伝わる大道芸を学ぶ「大道芸研究会」に入会し、芸を磨くことにした。
演目を増やし、ライセンス取得へ
約150人の観客を前に初舞台を踏んだ十兵衛さんは、その後も大道芸を磨いた。レパートリーはガマの油売り、南京玉すだれ、地獄絵の絵解き口上以外にも増えた。バナナの叩き売り、大道芸の古典と言われている外郎売りの口上、昭和30年代に露地でしばしば見かけられた万年筆売りの口上、皿回し、傘芸など。全部で十演目を数えるようになった。
芸を磨く一方で、資格取得も始めた。退職後すぐに筑波山ガマ口上保存会口上士となり、2007年には江ノ島でのパフォーマンスライセンスを取得した。その中で最も苦労したのは東京公認のヘブンアーティストになることだったという。
ヘブンアーティストは2002年に石原慎太郎元東京都知事が「東京をパリのようにしたい」という思いから創設したもので、合格した大道芸人は上野公園や舎人公園など、東京都が指定した場所で芸が披露できる。第一次審査は志願書と自身の芸を撮影した映像を提出、これをパスすると実技の第二次審査が待ち受ける。十兵衛さんが受けていた頃は、毎年300人くらいが応募して、合格率は約15%だったという。相当な難関だ。
磨いてきたガマの油売りやバナナの叩き売りの芸を映像に収めたDVDで第一次審査は通過するが、第二次審査で落とされた。大道芸としては特徴がなく、インパクトに欠けるというのが理由だった。