豪農の跡取りとして平穏に暮らすはずが……
偉大な企業家にして偉大な社会事業家でもあった渋沢さんは、自分の人生を、自らが設立に関わった富岡製糸場が扱っていた蚕の繭にたとえてこう表現しています。
「自分の身の上は、初めは卵だったが、あたかも脱皮と活動休止期を4度も繰り返し、それから繭になって蛾になり、再び卵を産み落とすようなありさまで、24~25年間にちょうど4回ばかり変化しています」
渋沢さんは1840年、今の埼玉県深谷市の豪農の家に生まれました。幼い頃から四書五経をはじめとする日中の古典を学び、12歳の頃からは剣術の稽古にも励んでいます。学問が好きで、剣術にも優れた才能を発揮する少年でしたが、14~15歳の頃からは「そろそろ農業や商売にも身を入れてもらわなければ困る」という父親の教えもあり、若くして商売にも優れた才覚を発揮しています。
世の中が太平であれば、渋沢さんはこのまま豪農の跡取りとして平穏な人生を送ることになったはずですが、黒船来航(1853年)や桜田門外の変(1860年)といった、江戸幕府(1603年~1868年)を揺るがすような出来事が相次いだことで、渋沢さんも国元を離れることになります。この時の跡継ぎを送り出す父親の覚悟と優しさを、渋沢さんは晩年まで感謝しています。
思いがけない五つのステージ
ところが、志を立てて故郷を出たつもりが思惑がはずれ、思いもかけない人生を送ることになりました。渋沢さんの人生は五つのステージに分けられます。
(1)尊王攘夷の志士として活躍した時期、(2)一橋家の家来となった時期、(3)幕臣としてフランスに渡った時期、(4)明治政府の官僚となった時期、(5)実業家として活躍した時期、の五つです。その間に「大政奉還」や「明治維新」といった「革命」があり、自らの思い描いた図とは違う生き方を迫られたのです。
渋沢さんが最初に目指したのは幕府打倒でしたがあえなく計画は中止、身を隠すために京都へ向かったものの、なぜか本来は敵である一橋家に士官することになります。そこで力量を認められた渋沢さんは1867年1月、徳川民部大輔随員としてフランスへ渡ったものの、同年11月9日に徳川慶喜が大政奉還を行ったため、今度は自らがよって立つはずの幕府そのものが崩壊しています。
ここまでは初志貫徹どころか、まさに挫折や計算違いの連続です。時代に翻弄されるばかりで、志を果たすどころではありません。