工場火災で化学肥料事業が窮地に
このように渋沢さんの頭には常に「社会のため」があったわけですが、それを貫くのも決して簡単なことではありませんでした。1887年、渋沢さんは高峰譲吉さん(タカジアスターゼ発明者)や益田孝(三井物産創始者)さんらと一緒に日本初の化学肥料製造会社・東京人造肥料会社(現・日産化学)を設立しました。食糧増産に欠かせない肥料を国内で生産するためのものでした。
ところが、当時の農家には化学肥料への偏見があり、赤字続きでした。それでも渋沢さんは何とか事業を軌道に乗せていきますが、その直後に工場から出火、施設すべてが焼け落ちてしまいました。事業をあきらめてもおかしくない逆境です。実際、株主の多くが「会社の解散」を求める中、渋沢さんは肥料製造が農村振興には不可欠であると、自分ひとりでも成し遂げてみせると力説しました。
社会に必要な事業なら頑張れる
大変だからと諦めては農業振興という目的を果たせなくなってしまいます。「挫けても挫けてもたゆまず築きあげてゆく。その決心と誠実とこそは仕事の上で大事なことである」という渋沢さんの信念が通じ、会社は再び操業開始にこぎ着けることができたのです。
事業が不振の時にこそ経営者の力量が試されますが、「解散しかない」という局面での渋沢さんの決断が国産の化学肥料を救いました。
渋沢さんには、本当に社会に必要な事業のためならあらゆる逆境を乗り越える強さがあります。だからこそ明治維新後の日本に何百という事業をゼロから立ち上げ、同じ数ほどの公益事業(東京市養育院やのちの一橋大学、日本赤十字社など)を立ち上げることができたわけですが、それを可能にしたものこそ「逆境」の原因を冷静に見極める力であり、「私利」よりも常に「公利」を大切にする姿勢だったのです。