『マクベス』にはサスペンスものや謎解きの源流が詰まっている

時代の荒波に耐えて生き残ってきた古典作品は、時を超えて単に情報を伝えるというだけでなく、ひとを楽しませるエンターテインメントとして圧倒的に秀逸な出来栄えになっている。ひとを楽しませる術と方策が、完璧に仕込まれているのだ。

中田敦彦『幸福論「しくじり」の哲学』(徳間書店)

それは『古事記』や『源氏物語』と並んで、シェイクスピアの作品からもはっきりと感じ取ることができた。

とりわけ『マクベス』だ。構成がすばらしくうまい。冒頭でマクベスに対して魔女が3つの予言をする。急に現れた怪しい人物だから信用しなくていいじゃないかとも思うが、1つめの予言が即座に当たって、彼女を信じざるを得ない状況が訪れる。

すると2つめの予言も当たるに違いないとなり、マクベスはみずから予言に取り憑かれ近付いていってしまう。そこでさて3つめの予言が当たるや否や。物語はクライマックスへ向けて怒濤のごとく流れていく。

あらゆるサスペンスもの、推理もの、謎解きの源流がここに詰まっていると言っていい。時を経ても残るものの凄みは、やはり一度は実際に味わったほうがいい。

何百年も昔のものだと、さすがに時代設定的にピンとこない……。というひともいるかもしれない。そんなときは、そこまで時代を遡らずとも、名作の凄みを味わえるものでどうか。

たとえば、遡るのは昭和くらいまでにして、三島由紀夫である。その小説『仮面の告白』は『YouTube大学』でも以前に取り上げた。ゲイの青年を主人公とした話なのだけど、時代的にはまだそういう性指向が理解されておらず、彼は悩みを内側に抱え込んでいく。

彼に惹かれる女性が園子だった。ふたりはすれ違いを重ねながら、最後の邂逅としてミルクホール(当時の軽食店の総称)へ出向いた。帰る時間が迫る。今日こそ自分への気持ちを聞きたい園子だったが、彼のほうはといえば、たまたまそこに居合わせた好みのマッチョな男性に目がいって、気もそぞろだ。

ラストシーンは、卓の上にこぼれているなにかの飲物が、ギラギラ反射しているさまを描写して終わっている。彼のやり場のない欲望を象徴するようなものがポツリと提示される物語の閉じ方が切なくて、強烈で、たまらない。感情の揺れを文章にのせて描き出す表現力が、三島はずば抜けているのだ。

たくさんのひとの深いところまで「言葉」を届けたい

ひとになにかを伝える手段や方法は、工夫次第で無限にあるものだ。ひととつながるコミュニケーションの在り方もまた多様にある。そういうことをぼくは、古典に触れることでいつも感じ取っている。

『古事記』の作者や紫式部にシェイクスピア、三島由紀夫らの表現力たるやすごいものがあって、だからこそ彼らの作物は古典として生き続けている。でも思えば、彼らもまた言葉の力を信じ、それをフルに活かすことで傑作を生み出したのだ。

大きなくくりでいえば、ぼくがやろうとしているのも彼ら先達と同じことだ。言葉の力を利用してインプットとアウトプットを繰り返し、少しでもたくさんのひとの深いところまで言葉を届けられたらと、日々発信している。発信場所は舞台だったりテレビだったりネット動画だったりと移ろってきたけれど、やりたいことはといえば、なんら変わっていないのである。

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