本は深く考えるための「補助器具」
もともとぼくは、さほど特別な読書家というわけではなかった。以前から流行りの小説や話題の新書、ビジネス本くらいは気になれば目を通していたけれど、言ってもその程度である。読むのが好きというよりも、実用として必要な知識を得るために読むというのが、基本的なスタンスだった。
たとえば中学生時代には、職業に関する本を熱心に読み漁ったことがあった。弁護士という職業はよく耳にするし、大人は判で押したように「勉強ができるなら法学部へ行って弁護士になるといい」みたいなことを言う。実態はどうなんだとあるとき調べたくなった。
本にあたってみると、司法試験に受かるとなれるのか、でも弁護士以外にも裁判官と検事があるんだ、などと知ることになる。さらに裁判官と検事について調べると、そうかそのひとたちもつまりは官僚なのだとわかる。ということは、東大はいかに官僚養成所の色合いが濃いところなのかということもはっきりとしてくる。
じゃあなんでみんな官僚になりたがるんだろうと思って、さらに調べてみる。なるほど官僚にもいろんな仕事があって、中心にはいつも財務省があるのかと知れる。だったら勉強で勝負するとしたら財務省に行って、そこのトップを目指すというのが王道だな……と考えが進む。
このように、なにかを深く考えていくための道具というか補助器具として、ぼくは本を使っていたのだった。
安部公房の「ぶっ飛んだストーリー」に驚愕した
当時は小説もちょくちょく読んでいた。
よく覚えているのは、安部公房の小説『壁』だ。確か高校の現代文の教師に勧められたのだ。安部公房は昭和期の日本を代表する文豪で、ノーベル文学賞の有力候補のひとりだったらしい。
『壁』はずいぶん不思議な話だった。主人公が理由もなく名前を失ってしまい、それにつれて存在権すら奪われていろんな罪を着せられていく。しまいには自分が壁になってしまうというあまりに荒唐無稽な展開で、
「え、こんな自由に書いちゃっていいの?」
と新鮮に思えた。
それまでの小説の印象といえば、やたら主人公がウジウジ悩み続けているものというものだったから、イメージが刷新された。村上春樹作品も好きで読んではいたのだけれど、彼の基本のテーマである「喪失感」みたいなものは若い当時はまだリアルに捉えられなかった。それよりもパスタを茹でるシーンだとか、ソファの買い方についてウンチクを傾けているようなところのほうに、ずっとおもしろ味を感じていた。そのあたりはぼくの好みがはっきり出ている。
ゴチャゴチャ悩んでいるだけではどうしようもない、そんな時間があったらなにか新しいことを考えたり好きなことをしたり、具体的な行動に移すべきだろう……。ぼく自身がそうありたいと思う理想の姿を、小説作品のなかに見たいという欲望が強かったのだろうと思う。
若さゆえか、自分の気持ちを色濃く投影させながらでないと読書ができなかったわけだ。
当時は、自分が特別な人間でありたいという思春期特有の思いも強くあった。それで、ちっともありふれていない、ぶっ飛んだストーリーを展開させる安部公房の小説が、よく響いたのだろう。