「ソーシャルディスタンスは1メートル」

「ソーシャルディスタンス」という考え方がこのパンデミックによって定着しました。「互いの飛沫がかからないよう、人との距離を2メートル取りましょう」というものです。

ところがイタリアでは、「ソーシャルディスタンスは1メートルで」とされています。おそらく、その距離が彼らにとっての限界ギリギリの線なのだろうと思います。イタリア人たちは、相手の顔を見ながらそば近くでしゃべりたいのです。そうでなければ彼らのコミュニケーションは成立しません。それを精一杯我慢しての“1メートル”なわけです。

人との距離を詰めて話したいという気持ちは、電話からも伝わってきます。たとえばうちの姑。彼女から電話がかかってくると、受話器を耳から20センチほど離して聞くようにしないと、鼓膜が破れんばかりの迫力で向こうの声が迫ってくる。このご時世、電話を介していても飛沫感染の危険があるような気がしてしまうほどです。姑同様にイタリアの多くの人にとって、それぐらいの熱量でもって人と話すことが当然なのだと思います。

とはいえ、本人にその自覚はありません。私が家族に指摘しても「日本人の声の音量が抑え気味だからって、そちらに基準を置くな」と言われてしまいます。たしかに、言語や国民性によってしゃべり方や声のボリュームは違いますから、基準なんてない。ただ、今回のパンデミックでは大声で飛沫を飛ばしまくりながらしゃべる国民の国と、基本的に飛沫の飛ばないしゃべり方をする国民の国では、感染率にも差が出たのではないかと勘ぐらずにはいられないのです。

日本人とは違う衛生管理の価値観

以前、ハンカチで鼻をかみ、それを畳んでポケットに入れ、しかもそのハンカチを人に貸すというイタリア家族たちの習性をエッセー漫画に描いたら、「そんなに私たちのことを不潔扱いしなくてもいいじゃないの!」と、家族からこっぴどく怒られました。

漫画に描いたのは、決して彼らをバカにしてのことではありません。日本人の私たちとは衛生管理の価値観が違うということを言いたかったのです。でもあれほど怒るということは、やっぱり後ろめたいところがあるんじゃないでしょうかね(笑)。おそらく、彼らにも少しは公衆衛生という面で腑に落ちないものがあったから、私の漫画にカチンときたのです。

だって、考えてもみてください。このコロナ禍の最中に同じことをしていたらどうなるか。万が一ウイルスがハンカチについていたら、ポケットの内側がウイルスの巣窟になり、そこから出した手で「チャオ!」と誰かを抱きしめ、肩を組み、ドアノブを握り、お金を触るわけですよ。それによるウイルスの拡散ぶりは想像するだけで恐ろしいものです。