マスクは「自由が拘束されている感じがする」
イタリア国内の移動制限が緩和されて間もない頃、ニュースを見ていたら、北イタリアのどこかの海辺にたくさんの人がマスク姿に水着で繰り出している映像が出てきました。そこでインタビューを受けた女性はマスクをつけたまま、こう答えていました。
「海に来てまで本当はマスクなんてしたくありません。解放された気持ちになれないし、こんなもののせいで、自分のあらゆる自由が拘束されている感じがするんです」
自由の拘束。この女性の言葉はとても象徴的です。イタリア人にとってマスクは今や「自分たちの自由な判断では生きられなくなった」というパンデミックの状況を、端的に形象するものになっているのです。夫が「マスクは病気に屈服している感じがするから、つけたくないんだ」と言っていたのも、同じ心情が軸になっていると思います。
それと、やはり言語によるコミュニケーションが生活に根付いている彼らにとって、表情を遮るマスクは苛立ちの大きな要因ともなっているのでしょう。口を尖らせたりニヤリと笑うことも言語表現には欠かせないツールになっていますから、マスクで見えなくされてしまっては、うまく相手に言いたいことを伝えられない、というもどかしさをもたらしているはずです。ただそう考えると、やはり彼らにとって日常の言語の重要度は我々よりもはるかに大きく、それが感染拡大とは全くの無関係だった、とは言い切れないとも感じています。
マスク一つとっても、日本とイタリアで違いがある
ちなみに、日本のニュース映像では、多くの政治家のマスク姿を見かけるようになりましたが、そのなかでも私がとりわけ気になっていたのは、小池百合子東京都知事です。緑のスーツには薄緑色のマスクを合わせたり、見るたびにお洋服とマスクが絶妙にマッチしている。彼女のマスクを見ているうちに、学校で決められた制服ではあっても、そこにわずかなアレンジを凝らして、自分なりの着こなしを演出していた学生時代をふと思い出しました。あれも、ある種の拘束からの解放だったのかもしれません。
片やファッション的な要素を加えて着用し、片や拘束具として嫌がる。マスク一つをとっても、日本とイタリアの間に感覚の違いがあるようで、興味深いです。