定年後はゆっくり過ごすはずだった
小林はJALの整備部門のグループ会社で60歳の定年を迎え、2016年5月に退職した。仕事を優先するあまり家族には迷惑をかけた。そんな思いから、定年後は妻・知子さんと千葉の自宅でゆっくり過ごす予定だった。
しかし1年も続かなかった。当時天草エアラインは自社での整備体制を強化するため、同じ機体を持つ鹿児島の地域航空会社・JAC日本エアコミューターに整備業務を委託する方向で動いていた。整備のエキスパートが必要となり、小林に白羽の矢が立った。他にも関連企業数社から誘いがあったが、1機の飛行機を全社員の力で飛ばす天草エアラインに惹かれた。
「もう一度、自分は社会の役に立ちたい」。妻に話すと「お父さんがそう思うなら」と承諾してくれた。ちょうど娘が就職して独り立ちする時期だったこともあり、引き受けた。妻と天草に引っ越し、第2の人生をスタートさせた。
飛行機の大きさは変わっても、やることは同じ
小林の就任から約1年で天草エアラインの整備士はJACへの出向という形に変わった。天草エアラインの唯一の機体が整備に入っても代わりの機体を借りられることになり、正真正銘の「定期航空会社」になった。とはいえ、整備士の所属が形式的に変わっただけで、整備士の顔ぶれも、整備士としての仕事も変わらない。
それは小林も同じだ。飛行機への思いは、天草でも変わらない。入社以来、水をくんだバケツを横に置き、機首から尾部まで雑巾で磨き続けている。変わったのは、JALで担当したボーイング747ジャンボジェットの3分の1にも満たない飛行機の大きさだけだ。
今も「自分が事故機の整備の場にいたら、亀裂は発見できただろうか」と自問自答しながら、飛行機が訴える声に耳を傾ける。毎日機体を見ていると小石が跳ねてできた小さなへこみも気がつく。ちょっとした変化も見逃さない。それが整備士の使命だと確信している。
「自分の背中を見せることが最後の務めです」
小林は、筆者に新聞の1面記事の切り抜きを見せてくれた。日航機が御巣鷹山に墜落する直前、乗客が機内の様子を撮影した写真だ(※)。JALを離れたあともこの記事をデスクの引き出しに入れ、事故を知らない後輩たちの研修資料に必ず盛り込んでいる。
※筆者註:毎日新聞夕刊1990年10月13日付
「いくら『安全』と言っても伝わらないことがあると思います。どんなマニュアルよりも、この写真が当時の状況を雄弁に物語っています。整備士として忘れてはいけない場面です」