国際線の主力機を担当、企業戦士を支える喜び

小林が京都の工業高校を卒業し、JALに入社したのは1975年春。中学に進む頃、大学紛争を目の当たりにして、「紛争に時間を費やすよりも手に職をつけたい」との思いが強くなり、大学への進学の気持ちは薄れ、高校を卒業したら就職すると決めていた。

とはいえ、机に向かう仕事は自分には合わない。機械に興味があったので、おぼろげながら自動車整備士になろうと考えていたが、たまたま学校で航空整備士の求人を見つけた。全く想定していなかった仕事だった。学校の先生に相談すると「先輩もいる、これからの仕事だ」と背中を押してくれた。すぐに履歴書を送った。

機体磨く小林
筆者撮影
機体を磨く小林氏

入社以来、一貫して整備畑を歩み続けた。担当した機体は、「ボーイング747クラシック」「DC-10」「ボーイング747-400」「ボーイング777」。いずれもJALの国際線を担った主力機だ。乗客は日本の経済成長を支える企業戦士たち。小林は「そんな時代の担い手を、整備した飛行機で送り迎えしてきたんです。整備士冥利に尽きますね」と回想する。

35年前の日航機墜落事故の記憶

入社から10年。メキシコでの整備研修から帰国し、成田空港で整備を担当した。仕事は何でもそつなくこなせるようになった。一人前と言われる一等航空整備士の受検を控え、目標に向かって突き進んでいた時期だった。

そこに、衝撃のニュースが飛び込んできた。1985年8月12日。ボーイング747SR-100型機が群馬県上野村の山中に墜落し、520人が死亡した日航機墜落事故だ。

「うちの機体が落ちた。うそだろ……」。夏休みの休暇で、京都の実家に帰省中だった。テレビの画面に事故を知らせる速報が流れた。その場に立っていることができなかった。

航空機事故は離陸後3分、着陸前8分の間に起きやすい。クリティカルイレブンミニッツという言葉があるくらいだ。二重三重のフェイルセーフ(常に安全への制御が行える設計)の構造を持つ機体が、飛行中に墜落するなど絶対にありえない。それが整備士としての常識だ。

重い気持ちを引きずりながら休暇明けの職場に向かった。同僚たちの表情は一様に暗い。会社からは、今後のプライベートの行動を自粛せよという話があったが、それ以上の訓示のようなものは無かった。