「自分の民族は優秀だ」というバイアス
ヒトは、「特定人種→全員が劣・悪」の認知的飛躍をなぜ自分に許すのだろうか。
筆者は「自己奉仕バイアス」に注目する。これは、「ヒトは、自分にとって好都合な物事を真実として信じ込みやすい。逆に不都合な物事をウソ、または他人のせいにしたがる」といった、ご都合主義的心理衝動を指す。
たとえばある調査によると、ヒトは自分が他人と仲良くする能力が、一般平均以上と思っているそうだ。また、ヒトは自分がなにかで裁判に訴えられる確率、および法を犯したときに逮捕される確率を、実際より低く見積もる傾向にある。
ヒトがヒトを人種差別するとき、その前提には「人種間に、人間的価値の優劣あり」という地球平面説級の無知がある。その上で、自分の不安や鬱憤のはけ口を探す――。すなわち一種の自己奉仕をするために、認知的飛躍の衝動に自身をゆだねている可能性がある。
自己奉仕バイアスを牽制する方法
自己奉仕バイアスは、その存在自体を否定してくる厄介なバイアスだ。自分に好都合な物事はことさら、「これはバイアスなどではなく真実だ」と信じ込む。文明社会は、この自己奉仕バイアス存在の否定という自己奉仕バイアスを、法を含むクリエーティブな工夫で矯正しようとしてきた。
たとえば多くのヒトは、自分の運転技術について他人と比べて平均以上、と評価する傾向があり、自分が運転事故に遭う確率を低く思い込む傾向がある。そこで、自賠責損害補償法は、自賠責保険をすべての車の所有者に法で義務付けている。
自己奉仕バイアスは逆方向にも作用する。実際より過大に恐れ、過度な対応をとるのだ。たとえばヒトはサメに襲われる危険を過大に認知する。これは一説には、映画や事故の報道などを通じて、サメの恐怖はヒトの意識下で強烈に「可視化」されるからといわれている。
米国には、この「可視化」を人為的に演出することで、自己奉仕バイアスを牽制しようとする試みがある。連邦民事訴訟法Rule 68という。
民事訴訟では、一般的に、原告側は勝つと過度に信じ込み、被告側は負けないと過度に信じ込む自己奉仕バイアスにかられる。結果、双方が和解提案を蹴る。しかし、判決が下るまで時間とコストをかけて訴訟を続けた割には、当初の和解提案のほうが互いのためによかった、という場合がある。
そこでRule 68は、民事訴訟の終結前に受けた和解提案額より、訴訟の結果勝ち取った賠償金額が低かった場合、和解提案を受けた側が和解提案をした側の訴訟費用を負担するものとする。こうすることで、和解拒否しようとする側の自己奉仕バイアスの代償を可視化し、両者を和解に導き、ひいては私的紛争解決に要する社会全体のコストを節約する。