東条英機も悔やんだ「統帥権の独立」の愚
昭和前期の日本では、国務(外交)と統帥(軍事)が完全に乖離し、統帥権独立を濫用した軍が暴走し、大日本帝国は崩落した。300万人の同胞が無為に死んだ。
東条英機総理は巣鴨プリズンで絞首刑になる前、かつ子夫人から差し入れられた土井晩翠詩集の余白にびっしりと無念のメモを書き込んでいた。その中で記しているように、東条は、統帥権の独立と軍内部に蔓延した下克上の雰囲気が、国務と統帥の統合を難しくしたと明瞭に認識していた。
昭和前期の日本軍を、総理大臣、陸軍大臣、参謀総長を兼務した東条でさえ組み伏せることのできないビヒモス(怪物)に育て上げた原因は、この「統帥権の独立」であった。
「統帥権の独立」の火付け役は、1930年代、海軍内の艦隊派と呼ばれた人々であったが、これを憲法論に仕立てたのは帝国議会である。野党の政友会がロンドン海軍軍縮条約を利用して、民政党の浜口雄幸首相を攻撃する材料に使ったのだ。政友会は、内閣が「陛下の権限である統帥権を干犯している」と主張して、なぜ軍艦の数を政治家や外交官が決めているのだ、と突き上げたのである。
これは日本憲政史上、最大の失敗であった。なぜなら、この時以降、統帥権が独立し、軍の専横と暴走につながったからである。シビリアン・コントロールの一翼を担うべき帝国議会が、こともあろうに軍を野に放つような憲法論を提唱したのである。これほどの愚はあるまい。
過ちの歴史を繰り返さないために
この過ちの歴史を繰り返さないために、どのような国家安全保障戦略を立てるべきか。そして国家安全保障会議をどういう組織にし、いかなる運営を心掛けるべきなのか。つまるところ、政治と軍事の関係はいかにあるべきか。その問題が在任中、いつも脳裏から離れなかった。
今回のコロナ禍についても、世論は「果断な決断」を求め続けたように感じる。小池都知事や吉村大阪府知事のような自治体指導者に注目が集まり、それと対比される形で、対策が後手に回っているように見られた安倍総理の支持率が下がった。
外側から眺めている国家権力というものは、人によっては万能かつ強力に見えるかもしれない。しかし、その内側で過ごしてみると、「国家権力にできることには限界がある」というのが偽らざる実感である。財政赤字の続く日本では、どの省庁であっても予算の確保も人員の確保も思い通りにならない。世論の動向にも常に気を配らなければならないし、その世論は政権に対して極端に割れている。民主主義国家である日本の政府は、中国やロシアのように振る舞うわけにはいかない。