「バランスの取れた決断」こそ政府の使命

そうした制約がある中で、国内や世界の課題に目配りをしながら、手探りでバランスの取れた決断をしなければならないのが日本の政府である。その政策は常に、国民のどこかしらに不満が残るものにならざるを得ない。国民の多くが求めるような果断に見える決断は取りえないし、それが常に最善であるとも限らない。

ましてや、軍事問題に対しては「そもそも考えたくない」という国民が多く、忌避感が非常に強い。誤解を恐れずに言えば、国民の多くが求める決断をした結果、国を誤らないとも限らないのだ。

戦後75年続いた泰平の世は、日本から現実主義的な安全保障の感覚を奪った。戦後の日本は、日米同盟と言う分厚い皮膜の中で、自衛隊の活動を厳しく抑制してきた。「だからこそシビリアン・コントロールは貫徹されているのだ」と考える人がいまだに大勢いる。しかし、そんな状態のままで、実際の有事の際、文民出身の政治指導者が死地に赴く20数万の精鋭の自衛官を戦略的に指導できるだろうか。国民と国家の安全確保を全うすることが、本当に可能なのか。

「戦前の反省」に基づいて創られた国家安全保障会議

有事においてその重責を担うのが、総理の主宰する国家安全保障会議(日本版NSC)である。総理が危機に際して国家指導全体を担う「脳」、自衛隊が実際に体を動かす「筋肉」、政府の各省庁がもろもろの「内臓」だとすれば、その結節点にある国家安全保障会議は神経をたばねつなぐ「脊椎」である。

有事の本番において、この脊椎には凄まじい政治的、軍事的圧力がかかるだろう。私は、有事においてそれがぽきりと折れるようなことがあってはならないと思い、人知れず悩み続けてきた。政権中枢が鋼鉄の枠組みのようにしっかりしていなければ、政権は直ちに崩壊するであろう。そうなったら、戦前の大本営政府連絡会議と同じ過ちを繰り返すことになる。

国家安全保障会議はいまだ生まれたばかりの組織である。幸いにして戦火の試練も受けていない。率直に言って、その達成度はまだ4合目といったところだ。残念ながら私の問題意識は、私の非力の故に、共鳴してくれた少数の同僚、友人を除いて、広く分かち合われることはなかった。しかし、今後は志ある政治家や、外務省、防衛省、自衛隊、警察庁等から国家安全保障局に参集する俊英たちが、国家安全保障会議を改善、強化し、日本に真のシビリアン・コントロールの伝統を根付かせていってくれると信じている。