障害を負ったあと社会復帰を目指すのは当然になったが…

——新型コロナの影響で、オリンピック・パラリンピックの延期が決まりましたが、元選手や関係者からの反応はありましたか?

残念だけれど、仕方がないと思っている方が多いのではないでしょうか。ただ彼らにとって、現在のパラリンピックは、別の意味合いがあるのだと思います。

——かつてパラリンピックの「パラ」は、下半身麻痺を示す「プレパラジア」でしたが、現在は「もうひとつの」という意味の「パラレル」という意味で用いられています。名称の変更とともに、大会の役割も変わったということでしょうか。

1964年のオリンピックは国際的な祭典として盛り上がりました。一方、2週間後に開かれたパラリンピックは、観戦した人によれば、「大きめの会社の社内運動会ほど」の規模に見えたと言います

そして56年が過ぎたいま、パラリンピックを知らない人はいませんし、障害者がスポーツに取り組むのも当たり前の社会になった。大きなけがや病気で障害を負ったあとに社会復帰を目指すのも、当然のことと捉えられるようになった。その意味で、初期のパラリンピックの目的は達せられたのではないかと思います。

もちろん1964年のパラリンピックは、いまの時代に続く源流ではあります。しかし現在のパラリンピックを目指すパラアスリートの存在は、「見世物として扱われるのが怖かった」と語ったかつての選手とは、異なる文脈で語られるべきでしょう。

当時のパラリンピックが「いま」に向けて投げかける問い

——障害者の自立をめぐって、日本社会は変わったのでしょうか。

56年前に比べたら、バリアフリーは進みました。どこの建物にも、車いす用のトイレも、エレベーターも設置されている。でも、障害者スポーツをめぐる状況に限っていえば、ほとんど変わっていない面もあります。車いすバスケの練習をしようにもフロアに傷がつくから、と体育館すらなかなか借りられません。

元選手や関係者が56年前に体験した衝撃や驚きを、「過去の話」として語るのはためらわれます。ぼくたちの社会は、果たして本当の意味で変わったのだろうか、と。コロナ禍で延期となったいまだからこそ、当時のパラリンピックが「いま」に向けて投げかける問いにも重みが増しているのではないでしょうか。大会を延期するか、中止するか……。1964年のパラリンピックには、そんな議論を超えた意味があったと思うんです。

——パラリンピックは、障害者の自立、やがて障害者差別という社会の課題を乗り越えるきっかけになった。コロナウイルスも、分断や格差という社会問題を突きつけているように見えます。

稲泉連『アナザー1964 パラリンピック序章』(小学館)

はい。だから考えてしまうのかもしれません。例えばもしも、日本初のパラリンピックを主導した中村裕医師が生きていたら、いま、何をしたのだろうか、と。

新型コロナウイルスの感染を防ぐために、人と人が距離を意識して、「ソーシャル・ディスタンス」を保った生活をしなければならなくなってしまった。でも、また近い将来、さまざまな意味で社会の人々が手をつなぎ直して生きていく日が、きっとやってくるでしょう。

そのときに、もう一度、見つめ直してほしいのです。

障害者スポーツを通して自立を目指した選手たちや、彼らを支えて社会を変えようとした人たちの歩みには、どんな意味があったのか。1964年のパラリンピックは、日本社会に何をもたらしたのか。そこには、いまの私たちに突きつけられた問いを考える上での多くのヒントが含まれているように思うのです。

(聞き手・構成=ノンフィクションライター・山川 徹)
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