1964年10月に東京オリンピックが閉幕した2週間後、日本で初めての障害者の国際スポーツ大会「第2回パラリンピック」が開かれた。それはどんな大会だったのか。大会関係者を取材し、『アナザー1964 パラリンピック序章』(小学館)を書いた稲泉連さんに聞いた——。(前編/全2回)
1964年11月8日、東京パラリンピック開会式にて、参加22カ国約560人の選手役員が「上を向いて歩こう」のマーチにのって名誉総裁の皇太子さまの前を入場行進(東京・代々木)
写真=時事通信フォト
1964年11月8日、東京パラリンピック開会式にて、参加22カ国約560人の選手役員が「上を向いて歩こう」のマーチにのって名誉総裁の皇太子さまの前を入場行進(東京・代々木)

当時の日本に「障害者がスポーツ」という発想はなかった

——1964年のパラリンピック東京大会に注目したきっかけを教えてください。

障害者スポーツに関心を持ったのは、5年ほど前のことです。知り合いを通じ、アイスレッジ(パラアイスホッケー)の選手を紹介してもらい、話を聞く機会があったんです

すでに2020年に、東京でオリンピック・パラリンピックの開催が決まっていた時期です。メディアは大会を「東京オリンピック・パラリンピック」と呼び、なかには「2020年のオリパラ」とも略されている。そうした報道などに接しながら、素朴な疑問がわきました。なぜ、パラリンピックは、オリンピックとまとめて語られるのか。そもそも、パラリンピックってなんだろう、と。

——新型コロナ拡大の影響で大会延期が決まりました。延期、あるいは中止になった場合の経済損失、運営の成否にばかりに注目が集まっていますが、パラリンピックは本来、オリンピックとは別で障害のある人たちの社会復帰という意義もあったわけですよね。

いまでこそ、障害のある人たちが、スポーツを通し、心身両面で健康を取り戻していくという考え方は一般的です。

しかし1964年当時、障害を負った人がスポーツをするなんていう発想はありませんでした。パラリンピックを東京に招致しようとした人たちに対しても「障害者にスポーツをさせるなんてとんでもない」という反発があったそうです。

——パラリンピックに出場する選手が、パラアスリートと呼ばれ、幅広いジャンルで活躍する現在とはまったく状況が違いますね。

そうなんです。インタビューしてみても、56年前の選手たちは病院や「療養所」で暮らしていた「入所者」や「患者」で、いわゆる「アスリート」と呼ばれる人たちでは全くありませんでした。

それに、現在とはパラリンピックの枠組みも異なります。現在はさまざまな障害がある人々が参加する障害者スポーツの総合大会ですが、56年前の大会は脊椎を損傷した人が中心でした。パラリンピックの「パラ」も、現在の「パラレル」の意味ではなく、下半身麻痺を表す「パラプレジア」からとられたものです。