病院を出ても自宅に閉じこもるケースがほとんどだった
障害者に対する理解も進んでいませんでした。当時は車いすに乗った脊髄損傷患者の就労に対しても「障害者を働かせるなんて、気の毒だ」という見方がふつうで、病院や施設を出た患者は自宅に閉じこもるケースがほとんどでした。自立や社会復帰を考えられるような社会ではなかったわけです。
そうした状況を変えようとしたのが、大分県別府市の整形外科医・中村裕医師です。リハビリテーションを研究していた彼は、無力感にさいなまれていました。整形外科医として、脊椎損傷患者をどんなに手厚く治療しても社会復帰できない。医療の力だけでは自立が難しいことに日々、直面していたからです。
その彼に転機が訪れます。イギリスへの研修旅行で脊髄損傷患者を専門とする世界的な第一人者であるルートヴィッヒ・グットマンという整形外科医との出会いがそれです。中村医師は、グットマンや理学療法士らの指導で、水泳で体を鍛え、卓球でバランス感覚を養う脊髄損傷患者を目の当たりにします。
何よりもイギリスでは、障害者が社会復帰する道筋がつくられていました。中村医師の自著『太陽の仲間たちよ』によれば、当時の同国では20人以上の企業には3パーセント以上の障害者雇用が義務づけられ、1000カ所以上の障害者向け就職斡旋所があり、さらに自動三輪車や小型自動車の給付もあったそうです。
「出るようにって言われて仕方なく出場した」
——そのくだりを読み、現在の日本の厚生労働省のホームページを見たら〈従業員を45.5人以上雇用している企業は、障害者を1人以上雇用しなければなりません〉とありました。いまの日本に比べても手厚い就業支援と言えます。
だからこそ、中村医師も大きな衝撃を受けたわけです。その経験は、彼に脊椎損傷患者たちの自立とは、医療だけではなく、社会の問題だという気づきをもたらすことになるんです。
「小医は病を癒やし、中医は人を癒やし、大医は国を癒やす」という中国の故事があります。東京大会後、中村医師は別府に障害者就労支援施設の先駆けとなる『太陽の家』を創設しました。日本で、障害者の自立を主導した彼は、まさにそんな大医だったと言えるでしょう。
——元選手たちの言葉も社会の雰囲気を象徴しています。「人前に出るのが嫌で嫌で、そんな恥ずかしいことしたくない」「みんなから、どうしても出るようにって言われて仕方なく出場した」……。
卓球でパラリンピックに出場し、ダブルスでメダルを獲得した笹原千代乃さんですね。彼女は、大会に出場するために卓球をはじめましたが、その後は一度もラケットを握っていないと語っていました。実際に練習したのは、パラリンピック開催直前の半年ほどにすぎなかった。それだけ急ごしらえの大会だったのです。