武器商人の父から巨万の富を継いだ「戦前の富豪」
「赤星鉄馬」という名前を聞いて、「ああ、あの人か」とすぐに分かる読者は多くないだろう。
赤星鉄馬——明治15年生まれ。薩摩出身の父親の弥之助は武器商人として日清戦争の頃に巨万の富を稼いだ。鉄馬はその富を継いだ人物で、知る人ぞ知る「戦前の富豪」だ。
鉄馬は吉田茂や白洲正子の父でもある実業家の樺山愛輔、三菱財閥の4代目・岩崎小弥太といった重鎮と深い親交を持ち、日本初の学術財団「啓明会」を設立している。また、釣りを生涯の趣味とした彼は、大正末期に芦ノ湖にブラックバスをアメリカから移入したというエピソードも持つ。
だが、赤星鉄馬の存在は、これまで日本の近現代史の中でほとんど知られてこなかった。なぜなら、赤星は趣味から派生したブラックバスの研究書を除いて、日記や回想録といった文章を一切書き残さず、インタビューにも応じなかったからである。
謎に包まれた生涯を6年にわたって追い、昨年11月に評伝『赤星鉄馬 消えた富豪』を上梓した与那原恵さんは、この「消えた富豪」にどこで出会い、どうやって実像に迫ったのだろうか。
焼失した首里城の「かつての姿」を記録していた在野研究者
与那原さんが赤星鉄馬という名前を知ったのは、河合隼雄学芸賞などを受賞した前著『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』(中公文庫)を執筆中のことだった。
鎌倉芳太郎は大正末期から昭和にかけて琉球芸術の調査を行い、琉球文化全般の膨大な史料を残した人物だ。彼はカメラとガラス乾板を携えて大正期から沖縄本島・離島、奄美大島各地を巡り、風景や建造物、工芸品など千数百点の写真を撮影した。それはいまも当時の沖縄を記録した貴重な画像となっている。
とともに旧琉球王家を中心に貴重な古文書を収集、筆写したり、衰退しつつあった「紅型」型紙を収集したりした。鎌倉が登場した時期の沖縄ではのちに「沖縄学」と名付けられる研究が始まっていたが、本土では注目されておらず、彼の仕事は現在に至るまで総体的な「琉球文化研究」の最も重要な仕事であり続けているわけだ。
例えば、昨年10月末に火事で焼失した首里城は、大正末、取り壊しが決定していたが、それを阻止できたのは鎌倉の働きかけもあったからだ。国宝指定されたものの沖縄戦で失われ、戦後は琉球大学の建設によって、城壁などの一部がかろうじて残されているだけだった。