「明治人」樺山愛輔、吉田茂、野口英世との邂逅
本書は赤星鉄馬をめぐる「明治人」たちの群像劇としても知的好奇心をくすぐられる一冊だが、一方で自らは何も語り残さなかった一人の男の実像に、与那原さんが徐々に迫っていく手法そのものにも読み応えがある。
前述の通り、赤星鉄馬は明治15年に東京で生まれた。明治34年に中学を卒業後、アメリカにわたってニュージャージー州の名門校へ。その最中に父・弥之助が死去したがペンシルベニア大学に進学している。8年間の留学生活を終え帰国すると、家督を継いで銀行の設立や朝鮮での大規模農場「成歓牧場」などの事業を興した。啓明会の設立は大正7年、父親の遺した国宝級のものも含む大量の美術品を売却して得たうちの5分の1を財団設立のために提供したという。
与那原さんは赤星が青春時代を過ごしたカリフォルニアや朝鮮半島の農場跡などを歩き、膨大な資料によって彼の過ごした「時代」を描いていく。
樺山愛輔や吉田茂、フィラデルフィアに同じころにいた野口英世、大倉喜八郎や渋沢栄一ら財界の大物たち――。
自らは何も書き残さなかった彼自身の「輪郭」
同時代を生きた多くの人々の視点を借り、赤星の見ていただろう風景を再現することを通して、自らは何も書き残さなかった彼自身の「輪郭」を浮かび上がらせていくのである。
「例えば、鉄馬は孫文や野口英世とも交流があったのかもしれないという勘が働きましたが、実際に赤星の名前を見つけ出すためには、孫文の会った日本人名簿や野口の書簡集などを丁寧に読んでいく必要がありました。当時の電話帳から邸宅のあった麻布鳥居坂の近所に住んでいた著名人を割り出したり、『この時代なら革命家の宮崎滔天とも接点があったのでは』と思って滔天の方から調べていくと、タイ・バンコクで滔天と交流し、当地で写真館を開いた初の日本人磯長海洲が鉄馬の従兄であった事実を見つけ出したり。評伝を書きあげるまでに6年の歳月がかかりましたが、昔の資料や写真、新聞などを読みながら、自分でいくつか仮説を組み立てて、それを一つひとつ自分でつぶしていく作業の繰り返しでした」
また、アメリカやヨーロッパ、農場を経営した韓国など、彼の旅を追いかけて行く際も、クック社の資料と世界地図を照らし合わせながら、「この頃には鉄道があったんだな」という具合に当時の風景を忠実に再現することを心がけた。
「それは鉄馬の精神がアメリカへの留学や世界一周の旅の中で、どんなふうに変化していったかを想像する上で欠かせない作業でした」