無名の在野の研究者に2000万円を出した富豪がいた

その首里城が復元されたのは鎌倉没後の1992年。以後、首里城は四半世紀をかけて沖縄を象徴する文化遺産として受け入れられていったが、復元作業、とりわけ「色」と「かたち」の再現は鎌倉の遺した史料がなければ不可能だったと言われる。今後、首里城の再建が進められるとすれば、彼の史料は再び欠かせないものとなるはずだ。

与那原恵『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』(中公文庫)
与那原恵『首里城への坂道 鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』(中公文庫)

およそ10年前、その鎌倉の足跡を取材していた与那原さんは、彼が大正12年に「啓明会」という学術財団から多額の資金提供を受けている資料を発見した。

「香川で生まれた鎌倉芳太郎は、東京美術学校で学んだ後に沖縄に美術教師として赴任しました。その時に見た風景とともに琉球の歴史と文化に衝撃を受け、沖縄の人たちの協力を得ながら研究に着手しました。内地に戻ってから美校の研究生をする中で、さらなる研究を志しました。よって、その頃の彼は全くの無名の青年、まだ実績のない在野の研究者にすぎなかったんです」

「『啓明会』という学術財団は、その彼が行おうしていた「琉球芸術調査」に対して、今のお金に換算して3回にわたり総額約2000万円もの調査費を支給していた。大正12年というのは琉球芸術に注目する本土の人は皆無で、柳田国男が2年前に沖縄に来ましたが、『海南小記』発表以前という時期です。民俗学的な関心は向けられ始めていても、琉球を芸術として捉える人はいませんでした。そのような時代に、無名の在野の研究者に2000万円を出した富豪がいた、ということがすごく不思議だったんです」

国内の全研究助成費の五分の一を占めるほど大きな存在感

啓明会は基礎的な文献や資料の収集、研究に重きを置いて助成活動を行っており、学術界の重鎮のほか無名の研究者や女性研究者も支援するなど、当時においてかなり先進的な取り組みをしていた。〈近代日本の学術研究の基礎を築いたといってよく、設立当時は国内の全研究助成費の五分の一を占めるほど大きな存在感を示した〉という。

その啓明会の記録を調べてたどり着いたのが、同会は赤星から100万円(現在の約20億円に相当)の提供を受けて設立された財団という事実だった。だが、彼は財団の名に「赤星」の名を使用させず、運営にも親族を一切かかわらせなかったため、すぐには名前が出てこなかったのである。

ノンフィクション作家の与那原恵さん
撮影=プレジデントオンライン編集部
ノンフィクション作家の与那原恵さん

「私はフリーランスの書き手としてずっと仕事をしてきたので、在野の研究者にこれだけの調査費を出してくれる存在の有り難さを身に染みて知っています。でも、気になって調べても鎌倉に資金を提供した赤星鉄馬という人物は謎のままで、資料には具体的なことが何も書かれていない。いったいこの人は何者なんだろう、とがぜん興味が湧いてきたんです」

では、与那原さんはそんな赤星の生涯をどのように描いたのだろうか。