出場選手たちの「生の声」を扱った資料はほとんどなかった

1964年のパラリンピックの意義を考えるためには、当時の脊椎損傷を負った人たちがどんな存在だったか、どんな状況に置かれていたかを想像してみる必要があります。彼らの多くは箱根療養所や各地の労災病院、あるいは自宅に閉じこもって一生を過ごすしかなかった。そんな彼らがパラリンピックに出場する。大変な勇気が必要だったと思うんです。

——当時、日本には戦地でけがを負った傷痍軍人がたくさんいました。本にはパラリンピックに出場した傷痍軍人の遺族や関係者も出てきます。高齢の元選手たちを探すのは大変だったのでは?

直接、話を聞けた元選手は5人です。当時20~30代で、いまは70代後半~80代です。取材では「あと何年早ければ、あの人も元気だった」「あの人の話も聞いてほしかった」という声を何度も聞きました。

今回、さまざまな資料を集めましたが、1964年のパラリンピックに出場した選手たちの生の声を扱ったものは多くはありませんでした。語る機会がなかったのでしょう。だからこそ、取材を進めるうちに、彼らから受け取った言葉のバトンをきちんとつなげなければ……という使命感のような気持ちが芽生えました。

それぞれの選手が「脊髄損傷」という大けがを負った経緯

——たしかにこの本では当事者の証言が印象的に用いられていますね。これまでの稲泉さんの作品では証言は簡潔に絞り込まれていましたが、今回は証言をそのまま収めた箇所が目立ちます。なぜそうした手法を取ったのですか?

ぼくがこれまでに読んできたノンフィクションにも被取材者の語る生の声を大切に扱った素晴らしい作品がいくつもあります。たとえば、水俣病の若者たちを描いた吉田司さんの『下下戦記』。『仕事!』などスタッズ・ターケルのインタビュー・ノンフィクション、ノーベル文学賞を受賞した『チェルノブイリの祈り』もそうでしょう。当事者たちの語りを、自分なりに昇華して、ノンフィクションとして表現できれば、と思いました。

——元選手一人ひとりが「戦後復興、高度経済成長」という時代を背負っているようで、証言に引き込まれました。

そこをできるだけ生の言葉で書きたかったんです。それは脊髄損傷という大けがを負った経緯に象徴されています。

卓球に出場した笹原さんは、山梨県から丸の内の法律事務所で働くために上京しました。しかし東京駅で階段を踏み外してけがをし、車いす生活を余儀なくされました。

あるいは、アーチェリーの選手となった福岡の田川炭鉱育ちの近藤秀夫さんは、炭鉱の衰退をきっかけに一家離散を経験します。その後、石炭を運ぶ馬車屋で働き始めたものの、事故で脊髄を骨折してしまう。石炭から石油へ、とエネルギーの需要が変わっていくなか、近藤さんは子ども時代を過ごしていた。

なかには、バイク事故や工事現場の事故で、けがした人もいました。モータリゼーションが進み、多くの人がバイクに乗るようになる。都市開発が進んであちこちで工事が行われる……。社会が大きく変わっていくなかで、彼らは障害者として生きることになりました。