車いすの外国人選手に情熱的に口説かれた女子学生もいた

彼らはパラリンピックで再び衝撃を受けます。そのひとつが外国人選手と日本人選手の違いです。選手たちが集まるクラブで、車いすの外国人選手たちは、持ち込んだギターの演奏に合わせて歌い、踊り、盛り上がっている。なかには、海外の選手に情熱的に口説かれた奉仕団の女子学生もいたそうです。

——一方の日本人選手たちは、うつむきがちで気後れしていたという回想があります。そのギャップが、選手や関係者にとって衝撃だったのですね。

そのころ日本の障害者は社会に保護されるべき存在とみられており、彼ら自身もそう考えていたそうです。それが外国人選手と交流して意識が変わった。

障害を持つ人も、自分たちと同じように自立して生活を営める存在なんだ、と身をもって気づかされた。

その気づきが、従来の障害者像を覆すきっかけになり、若者たちに対し、生涯にわたる問いを投げかけた。障害者が自立できる目指すべき社会とは何か。日本社会はどうあるべきなのか、と。

語学奉仕団を代表する人物に、慶応大学の学生だった丸山一郎さんがいます。彼は大会後、障害者の問題に関わり、大学教授として福祉政策などを教えました。彼は、東京パラリンピックに参加した外国選手たちが、弁護士や教師、音楽家などとして活躍していたことを知って、とても驚いたそうです。

美智子さまが障害者スポーツに抱かれていた強い思い入れ

そして、衝撃や驚きを共有した選手や語学奉仕団のメンバーたちは、いまも強い結びつきでつながっている。1964年に形成されたネットワークの原点に、深く関わっていたのが、当時は皇太子妃だった美智子上皇后です。

以前から日赤で熱心にボランティアをしていた美智子上皇后は、橋本祐子さんをとても慕っていました。また美智子上皇后は、語学奉仕団の結成式に出席し、選手とも積極的に交流なさっていた。その後も、語学奉仕団の集まりに参加し、メンバーのなかには福祉政策や障害者福祉の面で美智子上皇后の相談相手となった人もいました。

美智子上皇后がいかに障害者スポーツに強い思い入れを抱いてこられたかは、上皇陛下が在位最後の誕生日の「お言葉」で障害者スポーツに触れられていることからも分かります。両陛下の歩みをたどっていくと、国民に寄り添ってこられたおふたりの原点の一つに、障害者スポーツやパラリンピックがあったことが浮かび上がってくるのです。