1964年10月に東京オリンピックが閉幕した2週間後、日本で初めての障害者の国際スポーツ大会「第2回パラリンピック」が開かれた。それはどんな大会だったのか。大会関係者を取材し、『アナザー1964 パラリンピック序章』(小学館)を書いた稲泉連さんに聞いた——。(後編/全2回)
当時の日本では「車いす」の人を見る機会はほとんどなかった
——1964年の東京パラリンピックは、出場した選手にとどまらず、選手を支えた人たちの人生、さらには日本の福祉制度を変えた大会だったと指摘されていますね。
56年前の東京オリンピックは、戦後復興を国内外にアピールするために取り組んだ国家的なプロジェクトでした。経済発展して、貧困を乗り越えたはずの日本が障害者問題をそのままにしておくわけにはいかなかった。
障害者の自立は、戦後の日本社会が置き去りにしてきた社会的な課題だったと言えるでしょう。もちろんそれは当事者や医療関係者だけの努力で解決できる問題ではありません。そんななか、のちに社会の変革に大きな役割を果たすのが「語学奉仕団」です。
「語学奉仕団」は、「ボランティア」という考え方を日本に紹介した橋本祐子が結成した通訳ボランティア団体です。東京でパラリンピック開催が決まると、日本赤十字社の職員だった橋本は、外国からやってきた障害者が日本語だけの社会に放り込まれたら「新たに口と耳の2つの障害を持つことになってしまう」と言い、語学に堪能な学生を約200人も集めて「語学奉仕団」を組織しました。
パラリンピックをめぐる体験は、20歳前後だった彼らの人生に大きな影響を与えました。当時の日本では街に傷痍軍人の姿はあっても、車いすの人を見る機会はほとんどなかった時代ですから。
——なるほど、だからなおさらインパクトが大きかったのですね。
奉仕団に参加した若者たちは、事故などで脊椎を損傷した患者が集まる箱根療養所などで彼らが置かれた状況をはじめて目の当たりにします。そこで彼らは想像したことのなかった障害者の生活を見たわけです。
ただし、パラリンピックに出場した選手たちがそうだったように、奉仕団のメンバーの衝撃も一度では終わりませんでした。