どんな仕事、職業、役割にも、「本質」というものは存在する。たとえば野球であれば、「野球とは『間』のスポーツである」「その『間』は準備する時間であり、考える時間」ということだ。この本質を理解すると、「ベンチは攻撃の際に休憩する場所ではなく、準備をする場所」という原理原則が見えてくる。本質、理屈を考え、原理原則を知ることで、より深い思考ができるようになる。深い思考ができるようになることで、勝利は確実になっていく。

「本質」を考える作業をしていない人が多い

こうして、「本質と原理原則」を見つけることができれば、進むべき道が見えてくるはずなのだが、案外、この「本質」を考える作業をしていない人が多い。光秀もそうだったのではないか。たとえ信長との間に齟齬があったとしても、「信長が掲げる天下布武による新しい世の中は、自分にとって生きにくい世の中になるのか」という本質を再度、確かめてほしかった。

野村克也 著『野村克也、明智光秀を語る』(プレジデント社)

本能寺の変を起こした際の光秀に対する私の思いは一貫して、「早まるな」というものだ。「迷ったら物事の本質を見極めよ」というのも、「早まるな」という気持ちから出たものだ。

また、光秀ほどの武将ならば、感覚を鋭敏にして「感じる力」を強く持っていただろう。そうであるならば、信長の小さな変化にも気づくことができたはずだ。もう1度、信長と向き合い、その変化を確かめてから決断しても遅くはなかったと思う。

私には、信長の心の奥底では、以前と変わらぬ光秀への信頼があった気がする。四国討伐の総大将の任を解いたのも、光秀にはもう少し大きな仕事をしてほしかったからではないかと思うのだ。

光秀は謀反がひとまず成功したものの、湧き上がる喜びはわずかだった。ただ、信長の重圧から解放された気持ちが胸いっぱいに広がっていた。それは、忘れかけていた若き日の気概だった。41歳で信長の家臣になる以前の、貧しかったが胸に野望を秘めて生き抜こうとしていた20代、30代の頃の気概を思い出したのである。

これは、私なりに考えた「本能寺の変」直後の光秀の心情である。

しかし、本能寺の変が終わったあとでは、「光秀よ、いまさら後悔しても遅い。賽は投げられてしまった。残念ながら、お主は滅びよ」としか言えない。

敗者は、私たちにとって人生の教科書である。勝者になれなかった光秀の人生から、私たちは多くのことを学べるだろう。そして、光秀から何かを学び、人生で役立てることができたなら、私たちは光秀を許してやってもいいのではないだろうか。

(構成=鮫島 敦 撮影=村上庄吾 写真=AFLO、時事通信フォト)
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