貧しさと隣り合わせの生活を、私もまた送った。私が3歳のときに父親は日中戦争で戦死し、母親が女手一つで兄と私を育ててくれたのである。貧しい暮らしだった。父親がいないこと、貧乏なこと、10代の私はずっとその劣等感を持って生きていた。

光秀の生きざまを知り、私なりに思い至った結論は、光秀は弱者の道を歩み続けたということだ。光秀の心には、私たちと同じように挫折、苦悶、羨望、光明、絶頂、苦悩が横たわっていた。最後には、誰もが知るところの「本能寺の変」を起こして謀反、敗北という形で己の生命を終えた。

勝負の世界は、敗者となる人間にしろ、勝者となる人間にしろ、一瞬に全エネルギーを注ぎ込むものだ。野球選手たちは日々、「試合」という勝負の連続の中で、チームの成績、個人の成績を競い合っている。その厳しさは、戦国時代の武士たちの気概に通じるものがあるかもしれない。

そして、勝負の世界も、歴史も、人間の極限から生まれるものならば、そこにはドラマがあるはずだ。光秀は敗者だったが、信長、秀吉、家康らの勝者たちよりもドラマチックで生々しく生きた。

光秀は弱者であり、敗者だった。つまり、私たちもまた光秀になる可能性を持ち合わせている。だから私は、「人はみな明智光秀である」と思うのだ。

よきライバルだった豊臣秀吉の存在

越前の朝倉義景を頼り、その家臣となっていた光秀は、40歳のときに足利義昭に出会う。次期将軍を目指していた義昭は、永禄10(1567)年に朝倉氏を頼った。このとき、義昭と織田信長との橋渡し役となったのが光秀だった。当時の信長は、隣国美濃を手に入れ、天下統一を視野に入れていた。

光秀の才能を高く評価した信長は、光秀を自身の家臣とし、京都奉行に任命する。こうして光秀は、義昭の近臣でありながら信長の家臣にもなり、2人の主君に仕える立場となった。

信長の家臣、義昭の近臣という光秀の二股宮仕えには同情する。私が野球人生で体験してきたキャッチャーというポジションと打者というのも、二股宮仕えに似ている気がするからだ。

キャッチャーという仕事は重労働だ。相手チームの打者の情報を分析し、理解するのには時間がかかる。その仕事に追われるため、打者としての技術を磨く時間が残らない。違う立場を見事に両立させた光秀は、並々ならぬ胆力があったのだろうと想像する。

2人の主君に仕えていた光秀だが、信長からの信頼を高め、徐々に信長の家臣として生きることを決意していく。義昭の時節に対する観察眼は自己中心で、客観的ではなかった。天下統一による時代の安寧がどちらに現実味があるかを徹底的に考え抜いたとき、光秀は信長を選んだというわけだ。