岐阜に凱旋した信長は、丹波攻めについてさっそく考えた。ようやく西および北に目を向ける余裕が生まれたのである。京都を押さえてはいたが、中国地方、北陸地方のほとんどが手つかずだった。
信長は長篠の戦いの前から丹波攻めの総大将は光秀と決めていた。同年6月に入ると、光秀に丹波攻めの総大将を命じて、すぐにでも丹波への出陣となるはずだった。しかし、越前での一向一揆の討伐があり、信長自らが出陣し、光秀も動員を余儀なくされた。そのため、丹波攻めはひとまず後回しになった。
力攻めを極力避け、5年がかりで丹波を平定
総大将になった光秀は、信長から京都奉行職を解かれた。丹波攻めの総大将となった光秀は、丹波の地形を見ながら、どういう戦術で攻略したらよいかを考えていた。丹波という国は山岳の小さな盆地ごとに、豪族たちが砦を築いていた。それぞれの砦、城の守りが堅く、力ずくで攻略しようとすると、味方の損害も著しいものになると考えられた。
そこで、光秀は力攻めの戦いは極力避けて、交渉を繰り返し、調略をもって豪族たちを味方に引き入れる作戦をとった。しかし、そう簡単にはいかず、苦杯を喫することもあったが、5年目の天正7年(1579年)に丹波平定を果たし、光秀は同年10月に信長に報告をするため安土城に向かうことになった。
信長から激賞され、恩賞として丹波一国を与えられた。近世石高で換算すると29万石である。それまでの知行地である近江国滋賀郡の5万石を加えて、34万石の大名になった。
まさに、光秀の栄光、50代の栄華であった。
「感謝、感謝」の文言で謀反の「む」の字もない
天正9年(1581年)6月2日、光秀は織田家にはこれまでなかった軍法を『明智家法』として制定した。光秀はこの軍法を家法として定めた。この軍法の「後書き」には、「瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない」という信長への感謝を書き残していた。
この感謝の言葉を記した天正9年6月2日とは、「本能寺の変」のちょうど1年前である。「信長様に感謝、感謝」の文言で、謀反の「む」の字もない。
光秀は信長に仕える前まで恵まれない境遇にいた。光秀は乱世の世に大志を持っていた。大志とは、己ならばこうしたいという志である。しかし、誰も自分を取り立ててくれない。こうした不遇の中で信長と出会った。
信長は門地を問わず、前歴も問わない。その人物が持つ能力のみを評価する、当時としては珍しい武将だった。光秀を見て、すべてを気に入ってしまった。信長にとって光秀は最初に城を与えた家臣だった。しかも、光秀は今でいうところの中途採用。中途採用でありながら、いきなり厚遇をもって対処されたのである。