光秀の人生を見ていて、もう一つ私と共通する点は、〈想像して、実践して、反省する〉という思考の回路である。反省をしっかりとすることで、成功を確実に勝ち取るという考え方である。光秀も、私も元来は慎重な人間なのである。王貞治もそうかもしれない。

しかし、長嶋茂雄は天才だから感性が無意識に、「想像して、実践して、反省する」を行っていたに違いない。上杉謙信も似たようなものだ。毘沙門天を崇めた彼は祈りながら、信心の中でそれを行っていたはずである。

光秀と対等になった気分で、私は話しているが、光秀は歴史に名を遺す武将であり、私はイチ野球人でしかない。しかも、日陰のポジションであるキャッチャーだ。キャッチャーはつくづく因果な商売だと思う。毎日飽きることなく、野球の筋書きばかりを書いているからだ。

「キャッチャーは1試合で3回分試合している」

私がよく話す話に、「キャッチャーは1試合で3試合分の試合をしている」というのがある。試合前の想像野球、実際の試合における実践野球、そして試合後の反省野球である。試合前には、相手打線の並びや打者のタイプを見極めて、どう攻めるか具体的に考えることが大切だ。そのシミュレーションをもとに試合でピッチャーをリードする。

しかし、想像の通りに行かないのが現実なので、試合後一球一球の配球と結果を思い出し、反省野球をするのだ。私の場合、この反省野球をしないとキャッチャーとして翌日戦えない。面倒だがこの繰り返しが、野球選手としての成長を促すのである。野球というスポーツは考えるスポーツなのだ。

武将の場合も同じだと思っている。当時の戦国武将たちの中には、文字もろくに書けず、「論語」など読んだことがないという武将がざらにいたようだ。しかし、彼らは戦話をすることで、戦のシミュレーションや反省会をしていたのだ。まさに、耳学問である。

光秀は教養のある武将だったので、戦いの前後には私の場合と似たような思考を繰り返していたはずである。

ターニングポイントとなった「天正3年」

光秀は15年、信長に仕えたことになる。その中で、天正3年(1575年)から天正7年(1579年)にかけての丹波平定の5年間こそ、光秀が一番輝いていた時期であった。

その意味で、天正3年(1575年)という年は、光秀にとっても、信長にとってもターニングポイントになった一年である。信長にとってみると、5月に三河で長篠の戦いがあり、宿敵武田信玄の子、勝頼を破った。武田の騎馬軍団を3000丁の鉄砲隊を活用し、完膚なきまでに打ち倒した。この戦いにおいて、武田は信玄以来の功臣は多数失われ、東方の脅威はひとまず消えた。